19世紀末、ペルーにも日本人軽業師は巡業していたようだ。アルゼンチンの『日本移民発祥の地コルドバ』(大城徹三著、1997年)によれば、《ペルーのリマに軽業師一座が二回来ている。二回目は一八八八年二月で興行師はチャス・コメリーでチョンマゲを結って裃姿で紙の蝶々を自由自在に飛ばし大好評を受けた。一回目はそれ以前に来ている―という訳で、南米に本格的に日本人移民が来ない前は軽業師、曲芸師が各国を巡回し、盛んに活躍していた時代だったといえる》(22頁)とある。
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江戸幕末から明治維新への移行期に、どんなサーカスや軽業師が東西の境を超えて行き来したかを書いた『ニッポン・サーカス物語、海を越えた軽業・曲芸師たち』(三好一、白水社、1993年、以下『サ物語』)によれば、幕末の弘化(1844―47)から安政年間(1854―59)にかけて全盛期を迎えていた曲コマの代表的な名人に竹沢藤治がいる。その息子が「万治」だ。
第2代竹沢藤治の子が初名として「万治」を名乗り、1849(嘉永2)年に第3代竹沢藤治を襲名し、江戸の両国広小路で披露興行を行い、大当たりをとったと『日本人名大辞典』(09年、講談社)にある。当時は芸名を襲名していたから、ややこしい。
「曲コマ」とは江戸時代の考案された曲芸で、大小のコマを扇子や日本刀の上に乗せたり、綱渡りさせるもの。《その彼(藤治)が曲コマに人形機関や水芸、軽業、手品などを組み入れ、歌舞音曲入りの興行を始めた。今でいう「バラエティ・ショー」である》(119頁)。
この新奇さに大衆は飛びつき、大変な人気となり、大阪東京はもちろん、日本全国を巡業して回った。
そこで気になる記述を見つけた。《一座の曲持太夫、竹沢万治はその後、洋行していたらしく、明治十年六月一日付の『新潟新聞』に、西洋へ渡って名をとどろかせた竹沢万治が東京より本港へ下り、島の永楽座で竹沢万治と曲持、曲コマの興行をしたところ大入り満員で客止めの札が下がった》(126頁)。
この《その後》とは明治8(1875)年2月の浅草興行のこと。明治十(1877)年には新潟に来ていることから、《西洋へ渡って》というのは1876年頃であり、73年にブラジルにいたとは考えにくい。
また、明治12(1879)年4月1日からの京都興行に関し、同126頁にはその人気ぶりがこう書かれている。
《初日から8日までの入場者数は、五万三千七百五十六人が記録され、桟敷、土間などは三、四日前に予約しておかねば取れないほどの大当りである。万次は当時、二十八歳。新聞評によれば芸は当代隋一、男ぶりも当世風の意気で、立派で威儀があり人ざわりが良く、頭の頂辺から足のつま先まで女ぼれのする風俗で、とかく京女からほれられて困ったという》。
これだけの人気者だった人物が、ブラジルに来て鈴木南樹が描いたような寂しい後半生を送ったとは信じがたい。(つづく、深沢正雪記者)