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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(98)

2014年のマリンガ日本公園落成式で、抱き合って喜ぶプピン市長とバーロス前市長

2014年のマリンガ日本公園落成式で、抱き合って喜ぶプピン市長とバーロス前市長

2014年のマリンガ日本公園落成式で、抱き合って喜ぶプピン市長とバーロス前市長誰が、何故、日本語学校を再開したか?

 ずっと昔からの緩慢な趨勢であるが、特に近年、各地で日本語学校の閉校が多い。ところが、マリンガーには、かつて一度閉めた学校を再開し、現在も存続させている――という珍しい事実がある。こういう例は、ほかに聞いたことはない。
 閉めたのは、1970年代である。地元の若者で、大都市の大学へ行き、卒業後、戻ってきた二世たちが「我々はブラジル人であり、日本語は必要ない」と唱えたのがキッカケとなった。
 結局、学校は先生を務めていた人の私的経営に移された。が、それは長くは続かなかった。以後は宗教団体が、ささやかに子供たちに教える程度になった。
 普通なら、そのままになったであろう。が、十数年も経ってから、変化が起きた。学校再開の気運が盛り上がったのである。それを盛り上げたのは誰だったか?
 大方の人が、それは一世の有志だろう……と推定する。が、そうではなかった。ブラジル生まれの人々であった。ただし若手の二世ではなく、壮老年層であった。戦前、戦中に子供時代を送り、何の疑いもなく、自分たちを日本人と思い込んでいた世代である。
 十数人が中心になって、再開・運営のため尽力した。何故、そうしたのであろうか?
 尽力した一人で、筆者がマリンガーで会った勝山三夫さんによると、
 「日本文化の大切さに気づき、それを守るためには、やはり日本語が必要と感じて……」そうしたという。
 1990年頃、開校し今も続いている。生徒数は120~130人で安定しており、これからも、このまま行ける見込み。
 ただ「日本文化を守るため」といっても、よく判らない。人は、しばしば、この日本文化という言葉を使うが、実に漠としている。後日、改めて勝山さんに電話で問い合わせてみた。「その文化とは何ですか?」と。すると、こういう返事だった。
 「精神、心、魂です」そう、文化には、そういう面もあった。
 勝山さんは続けた。
 「昔(戦前)は何処でも親が会館をつくり、そこで学校を開き、子供たちに日本語を教えてくれました。戦時中は家の中で……。我々は、そういう親の姿を見ながら育ったので、その面影が残っていたのです。親がそうしてくれたことの有難さが判ったのです」
 これには、ハッとした。戦前の日本語学校の命脈が、ここに生き続けていたのである。
 すでに記したことであるが、戦前は、どこの入植地でも、日本語学校をつくった。正確には日本学校といったそうであるが……。また学校と言っても、多くは粗末な小屋で、教材らしい教材もなかった。しかし親は、これにこだわった。
 外国語教育禁止令が出ても、隠れ授業を続けた。戦時中もそうして逮捕された先生もいた。拷問を受けて死んだ先生もいた。戦争が終ると、禁止令が解除されてもいないのに、学校を再開した処もある。
 子供だった勝山さんたちは、その親たちの懸命な姿、そして学んだ日本語から、日本人の精神、心、魂を学びとっていたのである。
 では、その精神、心、魂とは何なのか?