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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第15回=「オリメシャ」とは誰か?

論文『CIRCO-TEATRO NO SEMI-ARIDO BAIANO (1911-1942)(バイアの半砂漠地帯のサーカス劇場』のオリメシャ家について書いた部分

論文『CIRCO-TEATRO NO SEMI-ARIDO BAIANO (1911-1942)(バイアの半砂漠地帯のサーカス劇場』のオリメシャ家について書いた部分

 ブラジルの竹沢万次の消息を探して、ネット検索を続けるうちに、なんと、今まで日本移民史にはまったく現れてこなかった日本人軽業師の名前が出てきた。
 論文『(芸術、サーカスと体育)』(Unicamp、マリアナ・ロドリゲス・マエカワ論文、06年)によれば、ブラジルにおけるサーカスの歴史は1830年の「circo Bragassi」に遡るが、まだ代替え的なものでしかなかった。1840年代から主に欧州から本格的なサーカス団が上陸し始め、定着して影響を与え、「ブラジル・サーカス」を形成していったという。
 サーカス団を組織して巡業して回り、ブラジル・サーカス界に影響を残した外国系サーカスの中心人物として、ポルトガル系、米国系、イタリア系、ユーゴスラビア系に混じって、件のブラジル人「マヌエル・ペリ」はもちろん、「Frank  Olimecha,  japones (1888)」という名が挙げられている。この名前のどこが、日本人なのか――。渡伯年は1888年。残念ながら、竹沢の名前はそこにない。
 では、この「フランク(ポ語読みではフランキ)・オリメシャ」とは何者か? 移民史にはまったく出てこない。時期的には竹沢万次であってもおかしくないが、もしかして、彼以前の軽業師か。
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 別の論文『O VELHO-NOVO CIRCO: UM  ESTUDO DE SOBREVIVENCIA  ORGANIZACIONAL PELA PRESERVACAO DE VALORES INSTITUCIONAIS(新旧のサーカス、集団の価値を継承することによる組織的生き残りの研究)』(ゼッツリオ・バルガス財団修士論文、リオ、1999年、MARTHA MARIA FREITAS DA COSTA著、以下マルタ論文)には、ロベルト・ルイス氏論文からの引用として、やはりブラジル・サーカス界に大きな影響を与えた外国系サーカス団が列挙されている(48頁)。
 そこにも「Frank Olimecha, japones, (1883)」とある。ここでは渡伯年は1883年となっており、補足説明として父の名は「Torakiche Hayataka」と記され、驚くべきことに子孫の「ルイス・オリメチャは軽業師、企業家にして組合活動家で、Escola Nacional de Circo(サーカス国立学校)と、Servico Brasileiro de Circo do Instituto Nacional de Artes Cenicas(舞台芸術国立院サーカス・ブラジル・サービス)の創立者にして初代理事長」とある。
 さらにブラジル・サーカス界への貢献者として「Takasawa Manje, japones(1887)」と挙げられている。これは、明らかに「Takesawa Manji」の間違いだろう。竹沢万次は1887年の渡伯だと、このブラジル人研究者は指摘している。
 驚くべきことは、後者論文が列挙する「ブラジル・サーカス界に貢献した代表的25人の外国人貢献者」のうち、なんと2人が明治の日本人だった。学術界からは認められているのに、移民史上からは忘れられている。(つづく、深沢正雪記者)