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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第20回

自転車演技を披露していた時代の玉置ヴェロニカさん(CMCの展示より)

自転車演技を披露していた時代の玉置ヴェロニカさん(CMCの展示より)

 「O orangontango」はオランウータンのこと。綱渡りをしたり、高い所で曲技をする様子が公演のテーマにしたと思われる。「O Encanto – delicada fantasia minica do pais das cerejeiras em flor」を直訳すれば「悦楽―桜の咲く国の身体表現の繊細なファンタジー」となり、かなり日本を打ち出したタイトルになっている。
 興味深いことに子供の名前が時代を反映している。上から3人の子の名はみな日清日露戦争の英雄だ。「オヤマ」は日露戦争では元帥陸軍大将として満州軍総司令官を務め大山巌(おおやま・いわお)。
 続いて「Fukissima」は情報将校として有名な福島安正(ふくしま・やすまさ)だろう。フクシマだと「クー」(肛門)を連想させるので、わざと「キ」に替えた可能性が高い。福島は、ドイツのベルリン公使館に駐在し、西園寺公望公使(のちの総理)とともに情報分析を行い、ロシアのシベリア鉄道敷設情報集め、1892(明治25)年の帰国に際し、シベリア単騎行を行い、ポーランドからロシアのペテルブルクから東シベリアまでの約1万8千キロを1年4カ月かけて馬で横断し、「シベリア単騎横断」と呼ばれる大旅行をし、ロシアの実情を調べた。
 三男は、言わずと知れた連合艦隊司令長官、東郷平八郎だ。当時世界最強と言われた露バルチック艦隊を破り、「陸の大山、海の東郷」と言われた。「情報の福島」を加え、万次はかなりの愛国者だったようだ。
 鈴木南樹が《1940年6月9日、ミナス州都ベロ・オリゾンテで長男のラモン、芸名「Togo(東郷)」がピストル自殺した》と書いたのは、この三男だ。南樹は「長男」と書いているが、おそらく間違いだ。
 笠戸丸の2年前、1906年にサンパウロ市サンベント街に最初の日本人商店を藤崎三郎助が開店して間もない頃、万次が訪ねて、20数年も使っていなかった片言の日本語で「天皇陛下はまだご存命ですか?」と尋ねたのは、子供の命名から推測するに、本当だろう。
 その後、日本名を付けるのを辞め、アメリア、オウガ、ジェルマーノ、クロチウデなどロシア、ドイツ系の語源の名前となったことからブラジルへの馴化の度合いが推測される。
 CMCの役員リストをみると、なんと日系人名がある。「キュレーター(展示責任者)」「コーディネーター(統括)」という要職を兼任する玉置ヴェロニカさん(Veronica Tamaoki)だ。事務員に連絡をお願いすると「フェリアス中だから連絡がとれない」とのこと。なんとかメールアドレスを聞き出し、直接連絡をとった。
 ヴェロニカさんにメールで連絡を取ると、3日後ぐらいで「いいわよ」との返事がきた。しかし、いざインタビューの日時を決めるために再びメールを出すとなかなか返事が来ない。
 その間、CMCの展示物の写真をよく見直してみると、「自転車」演技のコーナーの写真に、若き日のヴェロニカさんが移っていた。1980年に自らアクロバットをしていた人物のようだ。(つづく、深沢正雪記者)