2月2日午前、サンパウロ市議会にほど近いセントロの自宅で玉置ヴェロニカさんを取材した。三世で57歳、知的で明るい雰囲気。元アクロバットだけあって、どこか華がある。祖父が東京出身で1920年代に渡伯、父・玉置ジョアンが1930年にプレジデンテ・プルデンテで生まれて非日系の母と結婚したという。
本人はパウリスタ沿線ヘルクランジア生まれで、「フェルナンド・モライスの『コラソンイス・スージョス』の舞台ね。でも、あれを読むまで、勝ち負けのことはまったく知らなかったわ」とあっけからん。
まったく個人的な興味からブラジル最初のサーカス学校「アカデミア・ピオリニ」に78年に入学、83年に卒業したという。
なんとその時の教師が、万次の孫カベラール・ピント・ソブリーニョだった。当時最高のエキリブリスタ(バランス芸の軽業師)の一人だ。
第17節で万次の三女クロチウデは「ピオリン」の末弟ラウル・ピントと結婚したと書いた。「ピオリン」は、ブラジルを代表する道化師アベラルド・ピントの芸名だ。サーカス一家の長男として1897年にリベイロン・プレットに生まれた。その才能は当代一流の文化人オズワルド・デ・アンドラーデやマリオ・デ・アンドラーデにも認められ、1933年から61年まで「ピオリン・サーカス」を経営。多くの映画、ラジオ、テレビにも出演した一流文化人で、彼の誕生日3月27日が「ブラジルのサーカス記念日」となった。
ピオリンは「サーカス学校を作りたい」との夢を抱きながら、輝かしい生涯の幕を閉じた。その遺志を顕彰して創立されたのが、ヴェロニカさんが入学した学校だった。
そんな代表的な人物の弟と、万次の三女は結婚した。おそらくその息子がカベラール・ピント・ソブリーニョだ。母方が万次家であれば、苗字が残っていないことに不思議はない。
研究者でジャーナリストのワルテル・ソウザ氏のサイト(3月7日参照、https://carapinhe.wordpress.com/2009/08/18/circo-piolin/)によれば、ピオリンの父ガリジーノ・ピントは《竹沢万次サーカスの支配人で、その後、パリャッソ(道化師)になった》と書いてある。つまり、ピオリンと竹沢家は家族ぐるみの付き合いだった。
同様に第17節に、万次の末娘イザウラはアンセウモ・オゾン通称〃カマロン〃と結婚したと書いた。オゾン家フォーラム(2月6日参照、orkut.google.com/c572287-t6e4c26c29dffba2.html)によれば、このオゾン家は1900年前後にフランスから渡伯したサーカス一家で、最初は兄弟2人(ヘンリッキ、ジョアン)で始まった。ジョアンは4男、1女をもうけ、末弟がアンセルモだ。
彼が結婚したイザウラの説明として《日本人サーカス一家の一人》と書かれているから間違いない。二人の間には3人の子供が生まれ、一人が赤子で亡くなり、リアとオラネが育った。リアは結婚せず、2004年に亡くなった。オラネは結婚して07年現在で健在だとある。
同様に、長女アメリアもコロンベッティと結婚したとあったが、これも有名なサーカス一家の名前だ。
つまり、家族の3分の1は有名サーカス団と混ざり、当地のサーカス・コミュニティの血筋の一つを形成した。文字通り、竹沢万次はブラジル・サーカス界の血となり肉となった。(つづく、深沢正雪記者)