日本移民史において万次は、南樹が1969年に『足跡』で著した内容で止まっていたが、とんでもなく高い評価がブラジル社会からされている。オリメシャ家に至っては、従来の移民史には一行も出てこない。このままではいけないと考え、「Mange」(万次)についてさらに調べた。
南樹は、息子ラモンについて《父(万次)が死んだあとラモンは一座を維持できず、ケーロロ一座に入って働いた》と書いた。この詳細を調べるために、「Qeirolo」をキーワードにしてさらに検索した結果、「Circo Irmaos Qeirolo(ケイロロ兄弟サーカス団)」が出てきた。
さらに調べると、ついにラモンの自殺を報じる記事が見つかり、「これだ!」と膝を叩いた。南樹が《1940年6月9日ミナス州の州都ベロ・オリゾンテからこの万次一家の上に起こった悲しむべきニュースを伝えた》(『足跡』52頁)と書いた部分だ。
ブラジル・デジタル国立図書館(http://memoria.bn.br/)にあるジアリオ・ダ・ノイテ1940年6月12日付3面で、しかも『足跡』と同じ写真を使っている。この写真は事件の少し前に撮ったものだとある。南樹が読んだのはこの記事に違いない。
思った以上に大きな写真で、記事もかなり長く、彼の人生の要約まで書かれている。南樹が万次について書いた文章の後半は、これが元ネタだ。
サーカスの人気曲芸師が自殺するというニュースは、かなりセンセーションを呼ぶものとして受け止められ、大きな紙面が割かれたに違いない。
読んでみると、冒頭、ラモンが拳銃で自殺したのがケイロロ・サーカスのカマリン(化粧部屋)だった。《Ramon Takesawa Manje》と名前が書かれており、《Togo》という芸名で知られていたとある。《サーカスは一般的に、一つもしくは二つ、三つの家族が構成する。勤勉に、懸命に働き、サーカス芸人の子供はやはり芸人になる》とも。
《サーカスは一カ所の留まることなく、動き続ける》などの説明に加え、《ラモンは父のカマリンで生まれた。ゆりかごが与えてくれるものとは何なのか。サーカスで生まれ、そしてサーカスで死のうとした。それは彼の運命だった。彼はこの運命に反抗していたのではない。なぜからアルチを愛していた。拍手喝采を得ることに生甲斐を感じていた。ポスターに乗せる名前は、民衆が発音しやすいトーゴーを使った。(中略)ベロ・オリゾンテで民衆はケイロロ・サーカスに通い、いつも喝采を送った。彼は客席のお気に入りだった》と書かれている。それだけ人気があり、評判が良かった。
にも関わらず、自殺を選んだ――。客から喝采を受けるような演技をする身体、健康条件が、病気のせいで、もう維持できないと悲観してのことだったのか…。
日本と云う故郷を持つ一世と、ブラジルのサーカスの化粧部屋で生まれて、生涯を巡業で過ごしてきた曲芸師の二世を比較し、南樹は《父の万次は日本と云う故郷を持っていたがラモンにはそれがなかった》という独自の見解を『足跡』に書き足したのだと分かった。
息子が自殺したという物悲しい逸話で、竹沢万次の話を終わらせてはいけない。彼の真価は〃神代の時代〃の先駆者、現代ブラジルにまで影響を残す気骨ある明治の日本人というものではないか。(つづく、深沢正雪記者)