さらに竹沢家の情報をネット検索するうちに、『CIRCO-TEATRO Benjamim de Oliveira e a teatralidade Circense no Brasil』(エルミニア・シルバ著、アルタナ出版、07年)が見つかった。1870年から1910年のブラジルサーカス界がどう劇場性を獲得していったかを、ベンジャミン・デ・オリベイラを中心に論じた本だ。
その139頁に、1880年頃から全伯を巡業していた先駆的な存在「サンパイオ・サーカス」の説明の中に竹沢万次の一座についての記述があり、なんと「1873年渡伯」と書かれていた。サツマ座がウルグアイ、アルゼンチンで公演した年だ。
《サンパイオの広告によれば、常に馬25頭、芸人40人を抱える大きなカンパニーだった。(中略)この広告では常に外国人芸人の存在、例えば日本人一座の竹沢万次――彼はすでに1873年からブラジルで、洗練されたバランス芸や体操、マジックに特色のあるカンパニア・レアル・ジャポネーザ(Campanhia Real Japonesa)で芸を披露していた――を強調していた。
大半の東洋のカンパニーは、最も独創的と認められていたパントマイムなどの新趣向を持ち込んだ。その一つが、O Encanto – delicada fantasia minica do pais das cerejeiras em florだ。
1883年には、カンパニア・インペリアル・ジャポネ-ザ(Companhia Imperial Japonesa)もあった。経営者はスペイン人のペーニャ・バスチーリャで、キューバ人やドイツ人の芸人に加えて、日本人芸人(名前を正当化するためにも)も抱えていた。このカンパニーは、少なくともテーマ性という意味で革新をもたらした。洗練された、強い印象を残す、アジア的なファンタジーと云われた日本式パントマイムのショー〃O orangotango〃を実現した。万次家は、他の日本人家族、例えばオリメシャ家と同様に、このカンパニーの一部をなした》とあった。
この論文から分かることは、万次は1873年に来伯し、いくつかの曲芸団に属したことだ。最初は《カンパニア・レアル・ジャポネーザ(Campanhia Real Japonesa)》を結成。そこからスペイン人が結成・経営した、東洋趣味を売りにする《カンパニア・インペリアル・ジャポネ-ザ(Companhia Imperial Japonesa)》にも1883年以降に移っていた。
その後に独立して《「Circo Imperial Japones」(日本帝国サーカス)》を結成した。
CMCの展示にあった内容のネタ元はこれのようだ。鈴木南樹は万次の来伯年を《一八七〇年の前田重左エ門の切腹事件と相前後して》と推定しており、このシルバ説の1873年は非常に近い。
このサンパイオにはオゾン家も属しており、フランス系でウルグアイからブラジルに渡ったヘンリッケは、マリエッタ・ボレル(オーストリア人)と結婚したと書かれている。万次の末娘イザウラが結婚したアンセウモ・オゾン、その父ジョアンの兄がエンリッキだ。このカンパニア・インペリアル・ジャポネーザやサンパイオの時代に、多くのサーカス家族と交流を深め、血族結婚して溶け込んでいったわけだ。
「サツマ座」というキーワードでポ語検索しても、まったく引っかからなかった。でも「1873年渡伯」という説は、もっと調べる価値がありそうだ。(つづく、深沢正雪記者)