3月24日、現在、ブラジル国内の政治動向上、見逃せない政党の一つとなっている民主運動党(PMDB)が結党から50周年を迎えた。
PMDBの存在は世界的に見ても稀なものだ。党の歴史は50年。軍事政権時代に1度政党政治が破綻したブラジルにおいては、最長の歴史を誇る党だ。だが、その政治史の中の役割は決して体裁の良いものとは言えない。とは言え、この政党を無視してブラジルの政治は動かないという、厄介な存在でもある。
PMDBの前身、民主運動(MDB)が結党されたのは1966年3月24日のこと。その2年前に軍事政権が発足し、国内は国家革新同盟(ARENA)の独裁となっていたが、MDBは軍政に不満を持つ国民や政治家の不満のはけ口となるべく、便宜的に作られた政党だった。
ただ、この当時、反軍政派政治家が全てここに属したわけではなく、ブラジルの政治に絶望して国外逃亡した政治家も少なくなかったし、軍政前の有力政治家に対する軍による暗殺説もいまだに有力視されている。
だがMDBは70年代に、ウリセス・マガリャンエス氏を中心に徐々に力をつけ、軍政がインフレで求心力を失い、1980年2月に結党の自由が認められると、PMDBと名を改めた。この政党は、その歴史の長さゆえに最も影響力の大きな政党となり、85年の議会内大統領選で、64年の軍事クーデターの際に罷免されたジョアン・グラール大統領のもとで首相をつとめていたタンクレード・ネーヴェス氏が当選し、軍政終了。そこでPMDBの時代が到来すると思われた。
だが、就任直前にタンクレード氏が病に伏し、7度の手術後に死去。大統領としての執務は副大統領だったジョゼ・サルネイ氏が代行していたが、タンクレード氏の没後、サルネイ氏が正式に大統領に就任した。
だが、サルネイ氏は、ARENAの後進、社会民主党(PDS)の党首ながら党内の内部分裂でPMDBに移った、元は軍政派の政治家だった。
サルネイ氏はブラジル北部の有力政治家だったが、国政は未曾有の1000%台のハイパー・インフレを起こす大失政となった。それを見かねたPMDBの有力政治家たちが離党。元サンパウロ州知事のフランコ・モントロ氏と、元サンパウロ市長のマリオ・コーヴァス氏らが離党後に民主社会党(PSDB)を作るなど、政界は混乱した。
以来、PMDBは30年間、「議会に議員は多いものの、決定的なリーダーがいない」という不思議なポジションを保っている。
議会では常に1、2位の議員数を誇るが、ブラジルは議会制民主主義ではないため、大統領を輩出できなければ政治をリードできない。だが、PMDBは大統領選に独自候補を出しては数パーセントの支持しか得られず、惨敗続き。それによりブラジルの政界では、PMDBよりも議員人数に劣る党から延々と大統領が生まれるという、いびつな構造が出来てしまった。
そうしたこともあり、大統領を擁する政党は、議会での展開を有利にするためにPMDBを綱引きする状況が続いてきた。そのため、90年からのコーロル政権にも、95年のPSDBのカルドーゾ政権にも、03年のルーラ以降の労働者党(PT)政権にも、すべてにPMDBが絡んできた。92年のコーロル大統領罷免の際は、副大統領だったイタマル・フランコ氏に棚ボタで政権が回る幸運さもあったが、それ以降は常に、与党の2、3番手政党扱いだ。
そんなPMDBに、党の歴史50年目にして、新たなチャンスが到来中だ。それはジウマ大統領が罷免される可能性が高くなり、ミシェル・テメル副大統領が、イタマル氏のように副から昇格する可能性が生まれているためだ。ジウマ氏の罷免が避けられないと見たテメル氏は、PMDBを与党から離脱させ、ジウマ氏の援護を減らす方策を取り、自身の昇格を待つ身となっている。
ただ、そんなテメル氏も、国民の世論調査での待望度はわずか2%ほどで、人気はない。現状では18年の大統領選は他政党からの大統領当選の可能性が高いが、果たして歴史は変えられるか。
(27日付フォーリャ紙などより)
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