12日(土)午前9時半、一行約150人はフォルタレーザ市のはずれにある、先駆者・藤田十作の子孫が持つ別荘に到着した。入口には直径10メートルほどの大きな鳥の檻、見事な熱帯植物の木々、子供の遊戯場、テニス場、プールもある豪華な施設だ。
マンゴーの巨木3本に囲まれるようにしてできた木陰に、150人分の椅子が並べられ、その一角に祭壇が作られていた。
慰霊祭の準備をしていた天理教フォルタレーザ中央教会の大浜晃さん(48、二世、ペルナンブッコ州オリンダ生まれ)に話を聞くと、元々30年ほど前に父・伸三さん(2014年没)が始めた教会だという。父の没後、教会を継ぐために1年間奈良で研修し、戻って来た。この10月に正式に同地の教会長に就任する予定だという。
ペルナンブッコ州に教会は二つ、セアラー州は一つ。ここでの信者数は50人程度。「藤田十作さんと父の親交は数少ない日本人同志として深かった。その関係で、今日の慰霊祭をすることになった」という。
聞けば、晃さんは今回の奈良研修以前にも12年間も日本に住んでいた。埼玉県や群馬県の国際学校に勤務し、英語やポ語で数学を教えていた。「群馬のエスコーラ・パラレロでは生徒が350人ぐらい居て、ほとんどブラジル人だった」とペラペラの日本語で語る知日派だ。
天理教方式で、同地で亡くなった先駆者を供養するための慰霊祭がしめやかに行われ、一行は順々に花を供えた。
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藤田十作の子息、「カピトン(陸軍中尉)・フジタ」と呼ばれる藤田ジョアン・バチスタさん(79)とその姉ルジアさん(89)が現れた。最年長のルジアさんに聞くと、14人兄弟が生まれ、成人できたのは6人、うち4人が現在も生きている。
ルジアさんによれば、「父は熊本県出身。1979年3月19日に90歳でなくなった」という。奇しくも、一行が訪ねた日の一週間後が十作の没後37年、供養するには絶好の期日だ。
逆算すると1890年か翌91年に熊本県で生まれたはずだ。1908年に18歳で単身、日本を出てまずはペルーへ。続いてボリビアに転住し、アンデスを徒歩で越えて、アマゾン下りをし、ようやくパラー州ベレンに到着したという。今なら「冒険家」といわれそうな険しい、命がけの道だ。
「日本で祖父が亡くなり、家族の生活は厳しかったという。父は長男だったが、ブラジルの評判が大変良かったので、多分『何年か稼いで戻る』というつもりで南米へ向かった。でも、日本に戻ることは一度もなかった。戦後、お金ができた時、父は私たち兄弟をみな一度ずつ日本に送りだしたが、本人はけっして行こうとしなかった。私もジョアンも熊本の父が生まれた家に行ったことがあるわ」と思い出す。先人の生涯は茨の道だった。(つづく、深沢正雪記者)