亡妻の愛していた猫ミケが、あっけなく死を遂げました。妻の形見だという思いで、10年間いっしょに過ごしてきたミケでした。何の病気も患わず元気だったミケは急に食欲が無くなり、医者には連れて行ったものの、退院後4日目に16年の命を終えました。人間の寿命にすれば、80歳だそうです。
そうすると私の人生もそろそろ終末に近いことを示唆されます。今この部屋には、先輩にいただいた花の絵のカレンダーが飾られています。花の絵と共に『この花はこの草にしか咲かない。そうだ、私にしかできないことがあるんだ』と書かれています。それを見ながら亡妻のことを思い出します。
頚動脈閉鎖症にかかり絶対安静を処方された妻が、急に思い立って動物愛護協会に出かけ、好きな子猫をもらいうけ、自分の身辺で飼うことにしたのです。
3日後に愛護協会の係官が検査訪問に来たとき、部屋に通すと、ベッドの妻の枕辺には幸せそうな顔で身を横たえるミケの姿がありました。即座に係官は飼育合格のサインをしました。妻の話では、大勢の子猫の中で「わたしを連れて行って」と皆を掻き分けながら近寄ろうとしたのがミケだったそうです。
妻は私にとって大切な人でした。サンパウロで知り合い結婚を約束し、移住事業団リオ支部への転勤後、伯法で定められた転勤に関する昇給は無く、不満を抱く同僚と共に退職し、2か月ほど無職で絶望的な状況でしたが、ニテロイの日系企業に拾われ、そこで何とか生活を立てました。
このような最悪の経済状況の中で、彼女は「自分も働くから大丈夫」と夫婦共稼ぎでの結婚に踏み切ってくれたのでした。その3か月後、200ドルの月給で働かないかという大使館からの話があり、働き始めて1か月後、大使不在中だったこと、過去に転職が多かったことで、180ドルしか払えないという決定がありました。それを屈辱的と反応する私を慰留し、その後、その恥辱に耐えようと大学での勉強を決意した私を懸命に支えてくれたのが妻でした。
そんな苦労を共にした妻の最後の6年間を慰めてくれたのがミケだったのです。妻亡き後、常に私のそばでミケは私を癒してくれました。私同様、決して人に媚びを売るような様子は無く、それでも「そばにいるよ」と尻尾を私の足元に触れながら自分の存在を示してくれました。ミケにしかできないことだったのです。
さて、一老移民にすぎない私にできることは何なのか、そんなことを考えます。
タグ:サンパウロ