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県連故郷巡り(北東伯編)=歴史の玉手箱=第9回=セアラー唯一のコチア青年

桜庭セルソさん

桜庭セルソさん

 同協会メンバーの桜庭セルソさん(61、二世)は20年前に仕事の関係でサンパウロ州から移り住んだ。ブラジル民謡協会の故桜庭喜太郎さんは伯父に当るという。「現在の会員は100家族ほど。多いときには運動会に700人が集まったこともある。でも費用の問題で2年前に中止した。セアラー州立大学には日本語コースがあり、学生は200人もいる」と現状を説明した。

 話をしているうちに、セアラー州唯一のコチア青年に出会った。永浦二郎さん(宮城県、2期1回)は宮城県立宮城農学寮出身。「東北で有名な全寮制の農学校。農家の子供が送り込まれて、ビンタをされながら厳しく教育を受ける」と笑う。
 「海外で大きくやりたい」という夢を持ち、東北新報の広告でコチア青年を見て興味を持ち、親に隠れて応募したという。長野県で一カ月講習を受けて、1956年に渡伯した。「あの頃、日本はまだ食糧難、厳しかった。農家の次、三男に良い就職先なかった」。イタケーラの組合員の農場で4年間を務めあげ、1961年に貯めたお金で「ポ語勉強してブラジル全体を知ろう」と旅に出て、結局は最初の町に居ついた。

永浦二郎さん。奥さんと共に

永浦二郎さん。奥さんと共に

 「55年前、セアラーには何にも野菜なかったんだよ。だからコチア組合から種を取り寄せて、色々作り始めた」――そこからコチア青年の孤軍奮闘が始まった。
 「コチア組合からいろいろな種を取り寄せて、野菜を作り始めた」という永浦二郎さんだが、「葉野菜を作って市場に持って行っても、誰も食べないんだ。食べる習慣がない。藤田さんの店でもその頃は花だけ。野菜はやっていなかった」と愕然とした。
 もともと消費されていた野菜はコエントロ、セボリンニャ、アルファッセだけ。「今でも60、70歳以上の人は、野菜食べないよ。だから、お店に来る人に食べ方を教えて少しずつ広めた」。以前、ベレンやトメアスーでも同じ様な話を聞いた。北東伯では特にその傾向が強かったようだ。
 「あと、レバノン移民の金持ちは野菜を食べる習慣があった。彼らの農場で雇われて、しばらく野菜を作ったこともあった。今じゃ、野菜作りがいっぱいいるよ。僕は標高の高いセーラ・グランデで無農薬野菜を作っている。うちの店はお客さんでごった返してるよ。ノルデスチは作れば、野菜でも果物でもとても良いものができる。サンパウロより品が良いぐらい」と見ている。
 故郷巡り参加者の一人、元県連会長の松尾治文協副会長(77、福岡)は、「今回福岡県人は14人も参加しているんですよ。地方の文協や日系人との交流は、本当に大事ですね」と交流を楽しむ祝杯を重ねていた。
 その場でマイクを使って一行150人に、戦後移民最大のグループ「コチア青年」の参加者がいないか呼びかけた。永浦さんは期待してしばらく待ったが、誰も名乗り出る者がおらず、少し寂しそうな表情を浮かべた。(つづく、深沢正雪記者)