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県連故郷巡り(北東伯編)=歴史の玉手箱=第16回=毎週種まきと収穫をする農業

大規模メロン栽培をする大谷正敏さん

大規模メロン栽培をする大谷正敏さん

 3月13日(日)午後、一行は北大河州モソロー市にあるホテル・テルマス・デ・モソローに投宿し、ゆっくりと温泉プールを楽しんだ。セアラ―州都フォルタレーザと、そのすぐ南に位置する北大河州都ナタルは約400余り離れているが、その中間地点だ。
 夕方、同地で大規模メロン栽培をする大谷正敏さん(まさとし、68、愛知県)など、地元日系人が12家族いる中の15人余りが来てくれ、親睦夕食会を催した。
 大谷さんはニコッと笑顔を浮かべながら、「生涯現役。90になったら畑でメロンと一緒にコロッと死にたい」と初対面の相手に何気なくいう。大谷さんは1960年、小学校を5年で中退し、両親に連れられて11歳で渡伯。最初はイビウナ、レジストロ、スザノなどを転々として、聖南西のピニャール移住地に落ち着き、17年間、家族でぶどう作りをしていた。
 レジストロ時代は今も紅茶生産で有名な天谷家から500メートル、すぐ隣に住んでいたという。「子供の頃だから、裸足で学校に通っていたのを覚えているよ」。今ではモソローのメロン栽培は全伯的に有名になったが、70年代は誰も手掛けていなかった。
 最初、セアザで「アチアイエンセ」という仲買店をしていた菊地軍平さんが北東伯を視察した折、大型農場経営をするモソロ・アグロインドゥストリア・リミターダ社から「資金は出すから、メロンを作る技術を持つ日本人を紹介してくれ」と頼まれ、知り合いだったピニャールの入来田(いりきだ)邦男さんに話を回した。
 大谷さんの話では、同社の技師がスペインからもってきたメロンを食べて種を台所で捨てたら、自然に芽が出てきた。それを見て、「ここでもメロン栽培ができるはず」と思いつき、たまたまやって来た菊地さんに相談したようだ。
 入来田さんは78年に、家族を連れてモソローに移り住んだ最初の日本人だ。そんなソグロ(義父)の話を聞き、5年後の1983年に大谷さんも移って来た。
 大谷さんは「あの頃、資金がある人は皆、サンゴタルドやペトロリーナに移っていた。僕らはお金がなくて行けなかった。最初はブドウをやろうとおもったけど最初の収穫まで5年かかる。でもメロンは70日間。しかも大農場がメロン栽培の技術を求めていたから、僕らは収穫の何%をもらうという形で資金なしで始めることができた」という。
 「ここにきて、日本人に生まれて良かったと思った。ジャポネースであるというヴァロール(価値)を再確認した。移民先輩の功績は大きい。その信用の恩恵をすごく受けている」と繰り返す。どういう時にそれを感じるのかと問うと、「日本人的には最初、借金をするのが怖かった。そんな日本人の真面目さは足かせになる。でもある時、借金取りから借金する事を覚えたんだ。借金取りから『借金払え』と言われた時、『もちろん払いたい。だからもう一回、来年の分も貸してくれ』と頼んだ。日本人だと信用してくれて貸してくれた。僕はそれから一回も遅れていない」との逸話を語った。
 現在では3千ヘクタールの土地を持ち、うち800ヘクタールに灌漑設備を施し、うち毎年300ヘクタールずつメロン栽培をしているという。順繰りに土地を休ませながら緑肥を入れて輪作をしているという。(つづく、深沢正雪記者)