やはり地元の松本カルロス幸夫さん(52、二世)にも話を聞くと、かつては450ヘクタールほどメロン栽培をしていたが、今は300だという。「9割が輸出。理想は輸出7割、国内3割だな」という。聞けばピラシカーバUSP農学部卒のエリートだ。
父・松本トシロウさん(福島県)はコチア青年で1955年渡伯。最初は奥ソロのプレジデンテ・ベンセスラウに入植し、カルロスさんはそこで生まれた。父はプレジデンテ・プルデンテ在住。1994年にモソローに転住した。
「1994年」と聞いて「もしや?」と思い確認すると、やはりコチア組合で農業技師として輸出の仕事をしていたという。「父は1967年頃から85年頃までメロン作りをしていた。農業技師としてコチア組合から派遣されて、ジュアゼイロにもきた経験があった。だから、コチアが潰れた時、大谷さんから誘われ、父がメロン栽培していたのを思い出して勇気を出して決断した」と振りかえる。
モソロー在住1年という赤木寿弘さん(57、熊本県)にも話を聞いた。弊紙前身パウリスタ新聞記者だった赤木数成さんの息子だ。建設技師で、日本の小野田セメントで5年半仕事をしてセメント設計を覚え、機械の設計と据え付け、運転指導などのチームトレーニングを行う。モソロー工場の立ち上げのためにやってきたのだという。
興味深いことに、みなサンパウロ州から70年代以降に移転してきた組だ。それぞれの想いを胸に希望をもって新天地で挑戦し、見事に花を咲かせた。
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翌3月14日(月)の午前中、一行は大谷農場を実際に視察した。真っ青な空が広がる中、見渡す限りのメロン畑。その花の蜜を求めて、無数の蝶々が飛び交っている。
大谷さんは作業効率化を図るために「メロン収穫機」を自作した。15メートルほどのボーリングのレーンのような運搬機が畑を横切り、かがんでメロンを収穫した労働者がそのレーンに転がして放り込むと、先にあるトラックに次々に運ばれて、別の労働者が一つ一つ積み替えて行く。みるみる5メートル、10メートルと収穫機は進んでいく様に、一行はしきりに感心していた。
常時150人を雇用し、多い時は200人もいるという。
気候的には年間7カ月間生産できる。一度に全部植えるのではなく、毎週少しずつ植えて70日後に収穫というやり方を延々と7カ月間、約30週間繰り返すのだという。最初に種まきした70日後からは、毎週の種まきと同時に収穫も並行して行う。サンパウロでは収穫できるまで100日間かかるというので、ここの気候はメロンに適している。80%は欧州輸出向きで、残りはサンパウロ州へ出荷する。欧州向きと国内では品種が違うという。
欧州でメロンが一年を通して消費できる秘密は、世界中から季節をずらして出荷されるからだという。ブラジルのメロン生産は8月から2月まで、2月から5月までがコスタリカやグアテマラなどの中米、5月から8月がイスラエルやスペイン、ポルトガル産が出回る。「最近はアフリカでも生産が始まっている」という。(つづく、深沢正雪記者)