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県連故郷巡り(北東伯編)=歴史の玉手箱=第26回=司教がピウンで慰霊ミサ

故郷巡り団長の玉城道子さん(青森県人会長)が松苗夫妻に記念品を贈呈

故郷巡り団長の玉城道子さん(青森県人会長)が松苗夫妻に記念品を贈呈

 最終日3月16日(水)の朝、一行のうち28人だけで、ピウン植民地に向かい、慰霊ミサを行った。訪問先は現在も同植民地内に住む松苗賢治さん(72、神奈川県)の自宅で、150人全員は入りきれないという判断だった。
 ナタル市中心から15キロ、パルナミリン市に同植民地はある。「植民地」とはいっても、現在ではすっかり別荘が立ち並ぶような住宅街になっていた。敷地は幅100メートル、奥行き1320メートルもあり、最初のロッテをそのまま維持している。
 「11歳で移住し、ここに家族と一緒に住んでいた。でも、ナタルにあるペトロブラスに技師や監査として勤務し、定年退職した後、やっぱり〃ふるさと〃で過ごしたいと思って、ここに帰ってきた」という。ピウンに最初から住み続けているのは北山初江さんだけだが、松苗さんのように維持している人もいる。
 「両親はもう亡くなった。二人とも最初から永住のつもりで来ていたんじゃないかと思うよ。日本が狭いから、広い所で暮らしたいって。父(松苗武治・たけじ)は台湾で鉄道の仕事をしていて、終戦後に新潟県新井市市に行ったが合わず、ブラジルに来た」
 妻ジュウザさん(68)とは学校時代に知り合い、結婚した。彼の所は「賢治は末っ子。義父は家長として厳しく仕切る人だった。夫は『いつかピウンに戻りたい』っていつも言っていた。私はナタル生まれだから、最初は嫌だったけど、いまじゃあ、すっかりここの静かな生活が気に入っているわ」と笑った。
 よく手入れされた庭には、オルキダーリオ(蘭園)があり、ジュウザさんの趣味で、2千鉢以上あるそうだ。彼女は「日本には2回行った。とても気に入ったわ。ぜひもう一回行きたい」とも。

ロッシャ司教

ロッシャ司教

 異例ミサを司祭したのはなんとドン・ジャイメ・ヴィエイラ・ロッシャ司教だった。「日本移民が農業に奇跡を起こした。先人の苦労に想いを馳せながらお祈りしましょう」と語りかけると、ジュウザさんが同植民地の先亡者の名前を読み上げた。

小林了さん

小林了さん

 ミサの会場には、地元の小林了さん(おさむ、68、和歌山県)も姿を現した。1958年にリベイロン・ピーレスに入植し、サントアンドレの工業学校を卒業し、敷島紡績の工場などに務めたが、「サンパウロの会社では上が詰まっていて、上がれない。それなら新しい所に」と1976年にナタウに転住したという。現在は同地で学校の送り迎えバスを経営し、40年になるという。「気候は良いし、物価も安い。良いとこだよ」と豪快に笑う。兄のマコトさんは故郷巡りの常連だが、今回は参加していない。
 ナタルは数年前まで、「マグロの町」としても知られていた。3月から6月までが漁の時期で、日本から20隻以上も漁船が集まっていたという。小林さんはその通訳などの仕事をしていた関係で、事情に詳しい。

拿捕され、ナタル港に係留されている日本の漁船2隻

拿捕され、ナタル港に係留されている日本の漁船2隻

 3年前に日本の漁船2隻が南大河州沖で拿捕され、北大河州まで曳航されて、ここに係留されており、現在も裁判中だ。
「地中海とかは漁獲量の規定があって一隻50トンとか決まっているが、ブラジルはその規定がない。だから、日本船は最新機材を積んでいることもあって根こそぎ採っていく。ブラジルの漁船では太刀打ちできない。昔ほどマグロも採れなくなった。そのへんのことも拿捕には関係しているのかな」と説明した。(つづく、深沢正雪記者)