今年初め、日本からきた研究者に「ブラジルでは東洋街の鈴蘭灯が日本文化の象徴になっているが、日本では鈴蘭灯を見たことがない」と何気なく雑談でしゃべったら、彼は「リベルダーデの鈴蘭灯の由来を発表していた研究者がいましたよ。日本のどこかの商店街にあって、それをモデルにしたとか」と教えてくれた▼そこで「鈴蘭灯」「商店街」でネット検索してみたら、実際に何カ所かあった。「神戸元町商店街」サイト(http://www.kobe-motomachi.or.jp/cont08/cont08-128.htm)によれば、最初に鈴蘭灯が作られたのは京都寺町で1924(大正13)年、続いて神戸元町商店街が2年後に導入し、広がったようだ▼1926年といえば、「移民の団塊世代」(25~34年)が始まったすぐ翌年。この10年間だけで日本移民の半数以上を送り出した最盛期だ。しかも移民収容所のあった神戸の商店街だから、「日本で最後の買い物の時、鈴蘭灯が印象深い風景として記憶に残っていた。それを戦後、日本人街を作る時に再現した」という少々ノスタルジックなストーリーを思いついた▼鈴蘭灯建設当時を知る、リベルダーデ文化福祉協会の網野弥太郎評議員会長に確認しようとその話をぶつけたら、「あれは実は〃ちょうちん〃なんだ。後から誰かが鈴蘭灯なんて洒落た名前を付けた」と言われて驚いた。作った側の人間が言うのだから間違いない▼「日本の鈴蘭灯」の写真を見なおしてみると、確かにだいぶ当地のとは形が違う。鈴蘭は、斜めに延びた一本の茎から、金魚鉢をひっくり返したような形の白い可憐な花がクシ状に垂れ、カーテンの様になる。日本の鈴蘭灯はまさにその形だ。当地のそれは、横棒から三つランプがまっすぐ下に垂れている単純な形状、まさにちょうちんだ▼網野さんは「あの時はメトロと高速道路の2大工事で、リベルダーデ始まって以来、最大の危機だった」と振り返る。高速道路ラジアル・レステ・オエステの工事が始まり、日本人街の中心だったシネ・ニテロイのビルが取り壊された。しかもメトロ工事が始まり、リベルダーデ広場は掘り返されて、付近の商店にはポエイラ(赤土の埃)が舞って商品を汚し、雨が降ったら汚れるからお客さんも寄ってこなくなった。「そのおかげで家賃が払えなくなって潰れた店まで出た。工事には6年間もかかったんだよ」▼そんな危機をチャンスに代えるために作られたのが鳥居(1974年1月23日建立)と鈴蘭灯だった。「水本毅さん(当時のリベルダーデ商工会会長)初め、皆すごい危機感を抱えていた。そこで何か目立つシンボルを作ろうという話になり、僕が『鳥居を作ったら』と提案したら水本さんが気に入ってくれた。最初から〃観光地のシンボル〃という意味で宗教的なものはなかった。会員皆から金を集めて建立した」▼一方、鈴蘭灯はサンパウロ市が400万クルゼイロを投資して作ってくれた。「『下水もない地区が市内にあるのに、どうしてリベルダーデにだけ立派な街灯を作るんだ』って大反対する市議もいたのに、当時のミゲル・コラソーノ市長が無理矢理通してくれた。彼には感謝している。デザインは公募、ちょうちん案が採用された」▼74年3月23日にはメトロ南北線が試運転開始、翌75年2月17日にリベルダーデまで開通した。その年の9月14日から同広場で第1回「東洋民芸市」が始まった。今では欠かせない風物詩となった毎週末の「東洋市」だ。1970年代半ば、まさに危機の時期に今の「東洋街」の骨格が形成された。「危機をチャンスに!」というこの智慧は、今の日系社会にも必要ではないか。(深)