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数奇な移民人生を描く=『囚人の署名』掲載開始=勝ち負け前史、大政翼賛同志会

大政翼賛同志会の趣意文と共に撮った写真。右が平兵譽(DOPS調書26238号より、AESP所蔵)

大政翼賛同志会の趣意文と共に撮った写真。右が平兵譽(DOPS調書26238号より、AESP所蔵)

 TVクルツーラの人気ニュース番組『ジョルナル・ダ・クルトゥーラ』の編集局長、平リカルドさん(59、二世)は2012年に、ポ語書籍『Assinatura do Preso』(Editora Daikoku、2012年)という形で、勝ち負け抗争の前史ともいえる興味深い実際の日系家族の歴史を、小説の形で発表した。それを栗原章子さんが「囚人の署名」として翻訳、さらに『ブラジル日系文学』誌の中田みちよ編集長が校正の手を加えた。平さんの了解のもと、本日から掲載する。

 平良さんが取材を始めたきっかけは、「移民百周年の時、父は突然、終戦直後に消息を絶った伯父の話を語り始めた。それまで家族はまったく知らない内容だった」というエピソードだった。
 1931年2月、当時46歳だった祖父善次郎を家長に、一家7人は鹿児島県からサントス港に到着した。
 家長の平善次郎は46歳、妻の幾千代(いくちよ)は43歳。以下、兵譽(へいたか、19歳)を長男に4男1女。続いて英三(えいぞう、13歳)、藤子(ふじこ、10歳)、秋雄(あきお、7歳)、当時わずか3歳だった末っ子の英新(えいしん)が、筆者リカルドさんの父だ。
 一家はパウリスタ延長線のツッパンに入植。ヘイタカは1942年、日本の大政翼賛会への賛同と祖国帰還運動を目的に、同士数人と「大政翼賛同志会」を創立。サンパウロ市に街宣活動に向かう途上、「サルヴォ・コンドゥット」(警察の移動許可証)を持っていなかったころからイトゥーで警察に拘束された。
 さらに大政翼賛同志会の趣旨を書いた日本語書類を持っていたことから、社会政治警察(DOPS)から「国家治安罪」が疑われた。同年に収監され、49年に恩赦で釈放されるまで実に7年間も獄中生活を続けた。
 終戦直後の臣道聯盟関係者でも、殺害実行犯以外はみな2、3年で釈放された。愛国運動の書類を持っていただけで、7年間も監獄生活を続けた例はかなり珍しい。
 さらに49年に釈放された後、なぜか家族の元に帰らず、一切の消息を絶った。
 リカルドさんは、「父の話では、伯父は以前から『日本に帰りたい』と繰り返していたため、釈放後にこっそり帰国したと家族は思っていたようです」と振りかえる。
 父の話を確認するために、平さんがサンパウロ州立公文書館(AESP)でDOPS文書を調べると、伯父の調書が存在した。「調書の写真で、初めて伯父を見ました」とも。さらにその消息を調べるうちに驚くべきことが分かった。
 「釈放後、リオに移り住んで黒人女性と結婚し、子どもをたくさん作っていました。まったく予期せず、突然、多数の親戚が増えました、しかもカリオッカ」。リオでは空手をスポーツ・クラブ「バスコ・ダ・ガマ」で教えて生計を立てていたという。
 とはいえ「釈放後、なぜ家族に連絡を取らなかったのか?」は謎だ。枢軸国側移民として愛国運動をし、それがゆえに異国で獄中生活を送ったものだけが知る、家族に顔を合わせたくない男心、移民心理がそこにはあるようだ――。
 小説後半は、8月から五輪が開催されるリオが舞台となる。リオといえばカーニバルや世界的な観光地という派手なイメージが強いが、そんなトロピカルな場所に日本移民が刻んだ少し物悲しい記憶を、五輪を機会にたどってみたい。