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日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(3)

サンパウロの移民収容所の食堂の様子(『南米写真帳』)1921年、永田稠著、発行=東京・日本力行会)

サンパウロの移民収容所の食堂の様子(『南米写真帳』)1921年、永田稠著、発行=東京・日本力行会)

 英新は六十二歳になるまで乗馬の経験があることを黙っていた。
 それは、息子や孫たちとサンパウロ市からそう離れていないカブレウーバにキャンプに出かけた時のことだった。キャンプ場の管理人が一頭の馬を引いてきて、馬に乗りたい者がいるかと聞いてきた。英新は心が躍る思いがした。その日一日、馬に乗り、孫たちが馬に慣れてくれることを願っていっしょに乗せてキャンプの周りを闊歩し、乗馬を楽しんだ。たぶん、英新は、父が蓄えの一部を崩して畑仕事を手伝うため手に入れた「ユカナ」のことを思い出して幸せな気分に浸っていたのだろう。
   ☆    
 平善次郎は明治時代(一八六八年~一九一二年)、正確には一八八四年一〇月一〇日の生まれである。
 明治時代には新しい軍隊ができ、軍服はフランス式が採用された。また一般人でも男はズボン、シャツ、帽子、女はワンピースといった洋服を着用するようになった。初期の移住者は、このようなわけで、洋服をまとってサントス港に降り立っている。ブラジル政府にいわせると、現地社会から日本移住者が奇異な目で見られないための配慮から、義務づけたのだという。
 サンパウロ市の東部に位置するモオカ区アルメイダ・リマ街にある移民収容所で調べてみると、平の家族たちもこのような服装をして、サントス港に上陸したのである。
 移民収容所の中核となる建物は二階建てである。階下は事務など運営用のスペース、階上は男女に分けられた寝室になっていた。子どもたちは母親と一緒に寝ていた。中央部の裏にある食堂は広く、食卓と椅子は大理石で作られていた。炊事場には工業用の煮炊き釜がすえられ、一時に何百人もの食事が用意できるようになっていた。また、看護師がひとりと警官が配属されていた。
 この収容所が平家の仮の宿となったのである。一家は二カ月の船旅の後、一九三一年二月一三日にサントス港におりたったのだが、それが家族に手渡された書類に明記されている。
 また書類には、次の名前が列記されている。平善次郎(46歳)並びに平幾千代(いくちよ、43歳)、兵譽(へいたか、19歳)、英三(えいぞう、13歳)、藤子(ふじこ、10歳)、秋雄(あきお、7歳)、そして当時わずか3歳の末っ子の英新(えいしん)。
 こうして、日本の南にある九州の鹿児島を出て、海外へ新天地を求めて移住を決意し、故郷の親戚や苦労しつづけた耕作地を後にしたのであった。
 その当時、家族はともに歩むものだと考えられていたのだ。五〇日間、着の身着のままの船旅で、一家の財産ともいえるのは一個の小さな鞄だったが、兵譽がいつもそれを握りしめていた。平兵譽には長男として両親と同じように、一家を守る義務が課せられていたのである。
 ブラジルの地を踏んだ平兵譽は一九歳だった。読み書きができたので、物書きになることを夢見ていた。いつも肌身離さず鉛筆と手帳をもち歩き、どこかの片隅で何かに取りつかれたように紙に向かって書き込んでいた。
 すべて、独学である。ポルトガル語も早く覚え、ポルトガル語でも筆記するようになっていた。しかし、周りの日本人がポルトガル語を話さないので、日常は日本語で会話した。両親や弟妹もブラジルでの意志疎通に苦労していた。母親など一度もポルトガル語で話したことがない。両親が移住してきたころのブラジルは新大陸で、まるで月に行くような距離感があった。未知の世界は遙かかなたの神秘な世界でしかないのだ。
 移民収容所に落ち着いてから、各家族の配属先が明らかにされた。公認通訳から各家族の家長がよばれ、雇用契約書と家族の名前がローマ字で書き込まれた何冊かの「手帳」を渡されたが、書類の書き込みはずさんで、あわてて書き込まれたために間違いも多かった。
 例えば、善次郎の名前は箇所によって、ZENJIROあるいはZENZIROと筆記されていたし、母親の名前の欄もYKUCHIOになったり、他に〃O〃のところが〃S〃になったり、YKUCHISと筆記されたりしていた。『平』という苗字も 〃H〃が加えられてTAHIRAになっていたりした。