このようなわけで、日本人同士団結して農業組合を立ち上げる試みが行われた。成功したものもしなかったものもあるが、ともかく、今日でも新聞を広げると、当時の移住者が経験したのと同じようなことをいまだに継続されて、昔の「タコ部屋」の奴隷同様の農村労働者がおり、労働省の係員や連邦警官に救い出されたケースなどを目にする。
二〇一一年六月半ばに四二名が農村地帯で救い出された。彼らはミナス州の首都ベロオリゾンテ市から一七六キロの地点にあるオリベイラ市のコーヒー園で、家畜にひとしい扱いを受けていたことが判明したのだ。
関係当局によると人身売買によるものだと確認されたという。女や三人の子どもを含めた全員が栄養失調の状態で発見された。小さな薄汚い家の土間で寝起きし、排出管もないたった一つの便所を共同で使っていた。このような事件からも、昔も今もラジルのコーヒー栽培地帯は、人権無視の被害者を続出していることが分かる。
初期の日本人移住者が苦しめられた広大な農地をもつ貪欲な農場主による被害は、相変わらずつづいているのだ。これはブラジルの法令が無力で、一定の農場主(彼らの多くは連邦や州議員などである)にとっては、何の威力も発揮していないことを証明していよう。
第2章 蚕の家
一九三一年の初めに移民収容所をでた平の家族は、サンパウロ州の東北部に位置するベント・キリノ市についた。ジョアキン・リベイロ・ド・ヴァレ氏所有のアルツルジニョ農園が、平家が最初に腰を落ち着けたところである。
当時は鉄道の沿線にそって、特に駅の周りに町ができていた。町の名前は駅名と同じで、駅を中心に商店や郵便局などができていった。というのも、地域の医者や警官は駅のプラットホームにある部屋をたまり場にしていたからでもある。
ベント・キリノはモジアナ線の鉄道社の社長の名前で、一九〇二年にできた駅は社長に敬意を表するために命名されたものである。その後、ベント・キリノ市はサン・シモン市に統合されたのだが、その町に平一家が到着した時、「ニョー」とよばれる奴隷の感謝祭を行う準備がしているときだった。奴隷が勇者として祭られるのは、ブラジル史でも稀なことだ。「ニョー」の命日がお祭りの日である。
一九世紀に疱瘡がサン・シモンや近辺の町に猛威をふるい、多くの罹病者を出したが、当時は、そのの原因がわからず、誰もこの伝染病にかかった患者を診ようとしなかった。あちこちで死者が出たが、遺体はそのまま放置されていた。
そんなときに奴隷の「ニョー」がただ一人で小高い丘に穴を掘り、疱瘡の遺体を集めよせた。死者の数は定かではないが十数人だったであろうという。「ニョー」は墓を囲み誰も近づかないように配慮した。現在では、「ニョー」がつくった「天然痘による被害者の墓地」とよばれる墓地の正確な場所は分からなくなってしまったといわれる。
アルツルジニョ農園にも、数は少くても休日があり、善次郎は移民たちとの付き合いから煙草を吸うことを覚え、カシャサとよばれる地酒の味を覚えていった。故郷の淡い味がする酒とは異なる強い酒を飲み酔っ払う人々ガ多く、それを見ていたので、善次郎はあまり飲まないようにした。
カシャサは喉元を通るときに焼け付くような感じがする悪魔のような飲み物である。善次郎は付き合いが悪いといにわれようと、二杯目を差し出されても断りつづけた。トランプやドミノで遊ぶことも覚え、勝つと声をたてて笑う。そして、彼は勝負事のさきが読めて、よく勝つのだった。
兵譽は何日も、何カ月もあちこちをふらふら渡り歩きふらりと家に帰ってくるのだが、そのたびに家族の経済状態がちっともよくなっておらず、相変わらず畑でせっせと働く姿を目の当たりにした。