「リオ五輪でメダル獲得が最も期待されるブラジル柔道界」――今までに獲得した全メダル108個の内、バレー20個に次ぐ19個という実績があれば、そんな見方も当然といえる。元代表監督の篠原正夫(91、二世)は、1984年のロサンゼルス五輪で三つのメダルをもたらし、史上初の金メダリストも育てた。現代表監督の父でもある彼は、明治の侍から受け継いだ武士道の心構えによって、世界へ羽ばたく選手を育ててきた。(小倉祐貴記者)
「一つもメダルを取れなかったら、ブラジルには2度と帰らないつもりだったよ――」。国の威信を賭け、並々ならぬ決意で臨んだロス五輪のことを、やわらかな表情でそう振り返った。かつての悲壮感を心の奥底で思い出しながら、言葉には安堵感が漂う。
この覚悟はおそらく本物だったのだろう。そばで話を聞いていた妻や娘が、心配そうに篠原を見つめる。「お父ちゃん、メダル獲れんかったら、本当にどこへ行くつもりだったのよ」。今でもそんな質問を真顔でするのだから、大真面目に国外逃亡を計画していたようだ。それもそのはず。12年前のミュンヘン大会(72年)で石井千秋が獲得して以降、メダリストがぱったりと出なくなったからだ。
メダル第2号という至上命題を抱えながら、84年8月、篠原は長男のルイス準一(現在の男子柔道代表監督)らを率いて北米に向かった。まずは60キロ級、息子が畳に上がる。金メダルを獲得した日本の細川伸二に敗れ、敗者復活戦に回ったが、イタリア人に敗戦し7位に終わった。
「これだよ。息子が敗者復活戦で負けたときの写真だ」。そこには敗退が決定し、肩を落として畳を下りる準一の姿が写っていた。思い出のアルバムをめくりながら、今となっては白い歯がこぼれる。
続いて65キロ級にサノ・セルジオが出場。彼も期待に応えられず、7位に終わってしまう。しかし3番手で登場した71キロ級の愛弟子、恩村ルイス(二世)が、篠原にとって救世主となった。ついに待望の銅メダルをブラジルチームにもたらしたのである。
「厳しく指導したのはもちろんのこと。さらに彼は子どもの頃から悪ガキでね。とにかく負けん気が強かった。兄も柔道をしていたが、互いに一切容赦なしで戦っていた。ルールを決めた上でケンカ同様の稽古。ウチの息子はそれが無かったからメダルに届かなかった」。当時の興奮はすっかり冷めている様子で、冷静にそう分析した。(敬称略、つづく)