珍しく早起きして、ソファで血圧を計っていると電話がなった。早朝に電話がなるのはお葬式の話と決まっているので、恐る恐る受話器を取る。「オレオレ。未だ寝てた?」アチバイアのMさんだった。
「聞いて驚くなー」人をビックリさせるあの独特の抑揚。同船者で病気の人って誰だっけ?それとも元気な人が事故か何かで? 早く教えて!向こうもじれったいのか「聞いて驚くなかれ!昨日、珍しい人に会ったよ」と切り出した。
アー、誰も死ななくて良かったと安堵。するとMさんは続けて、「第1回移民船笠戸丸移民の2世第1号の人だよ」と自慢げな声だ。なんだかんだと説明があって、「君にこの事を新聞に書いてほしい」と依頼された。
次の日、彼は断り切れない私に数冊の資料を届けに来た。その人は『ローザ・ヨシ・橋口・ジョーンズ』さん。1908年4月28日出港の第1回移民船笠戸丸乗船時、母・橋口タニは妊娠一カ月だったが気付いていなかった。橋口敏政、タニの一家はモジアナのグァタパラを経て、ノロエステ線のピラジュイの耕地に入る。その年の10月15日、ローザさんが生れる。
未熟児として小さくひよわに生まれたが、黒い髪の毛の乳児は母の乳を一生懸命飲んですくすくと育った。橋口一家はリオ州のノーバ・イグアスに移り米作に従事したが、父の敏政さんが死亡。母・タニはローザと兄・敏信、妹・フランシスカ・シズコの子供3人を連れて、弟の村崎豊重を頼ってサンパウロに出た。
タニさんは織物工場で働いて生計を立てる。その後、村崎は敏信とローザに勉学の便を与える為にリベロン・プレットの耕地に移るが、仕事に追われて学校どころではない。サンパウロで母・タニは香山六郎と再婚する。
それから一家はあちこちの耕地を渡り歩くが、香山が新聞社をおこす為にバウルーに移った。この時ローザは12才。初めて小学校に入った。バウルー市の商業学校で簿記とタイプを修業。
1930年、バーシ・ウィリアム・ジョンズという英国人と結婚した。両親は国際結婚に反対だったので、2人は登記所で結婚した。日本移民第1号のローザさんは国際結婚でも第1号となった。
男やもめのMさんは毎日アチバイア市内の日本料理店でお昼を食べているが、日本人の様なブラジル人の様なマダムと、いつも目が合っていたそうだ。先日、思い切って話しかけると、自分は日本人と英国人の混血だという。
彼女の母が笠戸丸移民のタニさんの娘、ブラジルで初めて生まれた日系2世のローザさんであるという。尋問するのが上手なMさんに、その女性・ドロティさんは大事にしまっていた母の思い出の写真集や、ヴェジャ誌、ヴィゾン誌、コロニア誌、マンシェテ誌を渡してくれたそうだ。
40年前にそういった雑誌などで紹介されたローザさんは、日本移民の歴史の一ぺージを飾るので、私たちは再度新聞で取り上げたり、移民史料館に紹介すべきだと思った。
(1978年105号コロニア誌参考)