恩村に続けとばかり、12年ぶりの銅メダルの後は、重圧から開放されたように選手らが奮起する。ワルテル・カルモナ(86キロ級、銅)、ドウグラス・ビエイラ(95キロ級、銀)も続いた。1972年ミュンヘン五輪以来、3大会ぶりの快挙。柔道界が待ち望んだメダルを、一気に三つも持ち帰った。
しかも第2号は篠原道場出身の恩村で、正真正銘、「ブラジル生まれ」としては初メダル。続く88年のソウル五輪では、こちらも弟子のアウレリオ・ミゲル(現サンパウロ市議)が95キロ級で柔道史上初の金メダリストになった。
サンパウロ市西部のヴィラ・ソニア区にある篠原道場。ここから巣立った選手たちが世界の大舞台で輝きを放った。一体、どんな指導方針で弟子たちと向き合ってきたのだろうか。
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篠原は1924年12月、奥ソロカバナのアルバレス・マッシャードで生まれた。おぼろげな記憶では、1918年以前に両親が渡伯。「お金儲けして3~5年で帰るつもりだった」という。コーヒー栽培に励んだが、父・述一は病気によって死去。残された家族は、40年にサンパウロ市近郊エンブーに移り住んだ。
それまでは剣道に打ち込んでいたが、戦争の影響により禁止になった。その内に地元の日語教師に勧められ、柔道を始めることになる。篠原少年16歳の時だった。
エンブーで野菜を作るかたわら、柔道人生が始まった。7年後には厳しいことで有名な、東洋街トマス・デ・リマの小川武道館に通うことになる。侍の精神を持つ明治時代の柔術家、小川龍造による道場だ。
石井千秋の著書『ブラジル柔道のパイオニア』によれば、小川は1885(明治18)年、福島県生まれ。講道館柔道の創始者、嘉納治五郎の兄弟弟子に付いて免許皆伝を受けた。東京に道場を設立し、皇族に招かれて実演も行ったという経歴の持ち主。ブラジル移住に関しては、《日本での柔術家としての武道活動に志を得ず、昭和9年(1934年)、(中略)レジストロ植民地へ入植した》とある。
彼の道場は多く著名人を輩出した。石井を帰化させた、ブラジル柔道連盟のアウグスト・コルデイロ初代会長などがその一例。63年汎米大会のブラジル代表で、現在文協副会長を務める山下譲二が、小川武道館について驚きの逸話を教えてくれた。山下の兄・嘉男がその道場に通っており、相当に厳格な指導を受けたようだ。(敬称略、つづく、小倉祐貴記者)
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