山下いわく、「小川先生の教えはまずは姿勢から。『相手と組んだ時は腰を曲げるな。相手に正対せよ』。これが基本。さらに『試合には勝者も敗者もない。勝ってもガッツポーズはするな。そして観戦者は両者に拍手を送れ』という、真の侍のような考え方だった」。そして驚くのはここからだ。
「練習中にあくびをしたら即殴られるということも日常的」。さらには蘇生の手段も身に付けるべきと、「肘鉄や拳でわざと気絶させ、有段者にはそれを起こす訓練もした」。現代であればやり過ぎといわれそうだが、当時は徹底的に武道精神を貫いた。
エンブー在住だった篠原は、東洋街の小川武道館に3年間、週3回通った。ひたすらに規律を重んじる武士道精神。指導者になっても、そんな心構えが篠原の武士道哲学の基礎になった。
1956年にサンパウロ市ヴィラ・ソニアへ移り住み、「ふざけた柔道を見せたらとにかくしごく」という方針の下、60年から同地で道場を開く。54年8月に生まれた長男の準一にも厳しく指導した。
「5歳から柔道を始めさせた。泣いてばかりだったよ。厳しくしたからね。5人兄弟で唯一の男子だったからなおさらだ」。時には大会で負けた悔しさをぶつけ合いながら、準一は10代で代表選手になった。そして迎えた、待望の84年のロス五輪。息子は敗れたが、愛弟子の恩村が無念を晴らした。
88年ソウル大会では、アウレリオ・ミゲルが金メダルを持ち帰った。00年シドニーでも、篠原道場出身のカルロス・オノラット(90キロ級)が銀。恩村、ミゲル、オノラットの3人がメダルを獲得したのも、小川武道館による厳格な指導の影響だろう。
現在、ブラジル男子チームを率いる準一監督も、父の指導を通じそんな精神を受け継いだ。篠原は息子に大きな期待を寄せているが、現代柔道には物足りなさを感じているようだ。
「一本を取りにいくことが柔道の正しい姿だが、今は時代が違う」と変化を認めつつ、「攻めてばかりでは取られてしまう。相手との駆け引きをもっと学ぶ必要がある。攻め方、組み方にもっと工夫が必要」と指摘した。
8月のリオ五輪では、「ブラジルと世界の差は確かにある。いくつメダルを獲れるかは分からない」というのが篠原さんの冷静な見方だ。「息子は『欧州勢が強い。強敵だ』とこぼしていた。でも絶対に負けない、という気持ちで臨んでほしい。ただし『絶対に勝つ』では力むからダメ。だだ『負けない。力を出し切る』と思えば、逆に簡単には負けないよ」。
メダル獲得への国民やマスコミの重圧は、篠原自身が誰よりもよく知っている。しかも、今回は地元開催――。重圧を背負う息子を思いやり、そんな独自の言い回しでエールを送る。
コロニア仕込みのサムライ精神がリオで発揮されるかどうか――。泣いても笑っても、本番まであと50日余りだ。(敬称略、終わり、小倉祐貴記者)