そんなわけで父親と「兄さん」の仲はますます険悪なものとなっていった。いつも言い争いが絶えなかった。兵譽は町に出て、現状に不満をもつ人々の仲間入りをするようになっていた。
「笠戸丸」から二〇年以上も過ぎ、サンパウロ奥地の農村地帯では、日本からの移住者は力を合わせて会館を建設し、体育館も建て、スポーツを楽しみ、祭りや宗教行事、政治集会も行うようになっていた。
同じような日本人仲間のなかで暮らしたいという願望からか、善次郎は家族を連れてバストスに移り、次いでツパン市へと引っ越した。ツパンではまた新しい手帳(carteirinha)が配布されたが、相変わらず間違いだらけの氏名が記載されていた。
ツパンでは日本語が主流だった。ブラジル社会と日本社会があべこべになったような状態で、ブラジル人の店主や市場の商人は、商売をつづけるために片言の日本語で話し、「おはようございます」と大声で挨拶しながら、農業や養鶏を営む日本人を訪問し、営業していた。
ツパンの日本語学校で、日本語の他に日本史も教えていたのは年取った女の先生で、たぶん最年長の日本人移住者だったのではなかろうか。
鈴子先生は横浜で生まれ、日露戦争(1904~1905)のころ、陸軍大佐だったご主人と死別した未亡人だということだった。鈴子先生は自分の年齢を明かしたことがない。
夫の死後、掃除婦や家政婦をして、一人娘を育てたのだという噂だった。親娘は亡くなった夫の陸軍時代の友人の手引きで移住し、高齢のため農村での仕事はなく、娘の働きで生活していた。娘は移民船からおりてすぐ結婚していた。
当時、農場主が腰のすわらない独身男性を嫌ったことから、知り合ったばかりの男女が契約によって結ばれるのも普通だった時代である。
鈴子先生の授業は農作業の端境期に行われたものだった。というのも、生徒である子どもたちも農作業の労力としてかり出されていたからである。日本語の文法や漢字の授業の他に、子どもの好きな図画や折り紙の時間もあった。折り紙は日本の伝統芸術で、一枚の紙を折るだけで花、果物、動物などいろいろなものを創ることができた。折り紙の時間では必ずといっていいほど、鶴の折り方を習った。
移住して一〇年目を迎える直前の棉の収穫期だった。豆だこだらけのゴツゴツした手をした英新は腹の痛みで目覚めた。その朝は腹痛のため、満足にお茶も飲めなかった。腹の痛みはひどくなる一方だったので、足を引きずるようにして秋雄の所へ行き、腹痛を訴えた。英新は真っ青な顔をして吐きつづけ、ツパンのサンタカーザ病院に運ばれた。
病院までの道中はひどいものであった。というのも、いつもパンを配達してくれる人のいいポルトガル人が病人を運ぶために馬車を出してくれて、英新はその荷台に乗せられ病院に運ばれたのだ。だが、農園から病院までのでこぼこ道を荷馬車がすすみ、大きく揺れるたびに英新はひどい痛みに、うめき声を上げなければならなかった。
英新は病院で盲腸炎と診断され、すぐさま手術を受け、三日の入院生活を送った。その間、清潔なシーツが引かれたベッドで寝起きでき快適だったが、退院後は元のようにみすぼらしい藁のマットでの寝起きとなった。
善次郎にはもうひとつ、悩みが増えた。というのも、英新は力仕事がむりな体で、このまま力仕事をつづければ、死んでしまう恐れがあり、栄養失調を直すためには、定期的に医者に診せなければいけないと医者に告げられたからである。
一家はその日暮らしにも窮乏するような暮らしをしているのに、どのように生活改善を図ればいいのか、途方に暮れるばかりであった。
たぶん、英新の健康状態をきき、一家を気遣ってのことだろうが、絹糸業者がツパンの町にある家を貸してくれた。その家には、既に蚕を育てる設備が整っていた。家賃は蚕の繭の生産高から差し引かれるということだったが、家主の話では、家賃を差し引いてもまだ家族の生活費は残るとのことであった。