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日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(22)

広島に投下された原爆によって巨大なキノコ雲が生じた(米軍機撮影、By Enola Gay Tail Gunner S/Sgt. George R. (Bob) Caron [Public domain or Public domain], via Wikimedia Commons)

広島に投下された原爆によって巨大なキノコ雲が生じた(米軍機撮影、By Enola Gay Tail Gunner S/Sgt. George R. (Bob) Caron [Public domain or Public domain], via Wikimedia Commons)

 イーリャ・グランデで日本人囚人たちは原爆投下のニュースを知らされた。一九四五年八月六日付けの新聞は、太平洋戦争についての混乱したニュースを報道した。ある新聞はアメリカ政府の発表をそのまま記事にしていた。つまり、史上最も威力のある新しい爆弾が試しに使われたというものである。
 広島の原爆は人類で最初の原子力による攻撃として、戦争史でも類を見ない残忍な行為として歴史に残った。死者の数は定かではないが、原爆が広島に投下された八月六日に十四万人の死者が出たと推定されている。
 そして、長崎でも八万人が死ぬという原爆の被害を受けたのである。原爆はもっと残酷な結果を生み出した。偏見、隔離、トラウマ、そして放射能照射による後遺症もしくは死である。
 しかし、二度も原爆の被害を受け、生き延びたという驚くべき人いる。一人は広島の原爆による虐殺で生き延び、家族を訪ねて長崎に行った男性である。
 『広島の最終電車』という著書でチャールス・ペレグリノは、強運の持ち主、神の厚い庇護うけた平田研之(けんし)氏について書いている。平田は広島にあった三菱支社の武器工場の会計士であるが、原爆投下地点から三キロしか離れていない地点にいて、どのようにして助かったかについて述べているのだ。
 彼の妻のセツコは爆心地の周辺の自宅にいた。平田は妻を捜すために爆心地にいき、放射能の二次被爆に身をさらすことになった。家があったと思われる辺りの建物は消え失せ、地面からは炎が燃え立って焼け野原となり、家があったであろう場所と道が幾何学線を描いていた。
 知り合いの助けで、自分の家があったと思われる所を掘って、骨を掘り起こした。若い会計士は妻の骨と思われるものを長崎に住む妻の両親に届けなければと思い出かけていった。
 長崎に着いてすぐ、第二回目の原爆投下による放射線を浴びたのだった。広島では朝の8時15分に原子爆弾が炸裂した。住友銀行の支店前で、扉が開くのを待って行列をくんでいた人々が、一瞬のうちに溶けてなくなり、その人影が住友銀行の支店の階段に残されたのである。
 もう一人、二度の災難に遭いながら生き延びることができたのは山口彊(つとむ)氏という二〇一〇年一月に胃癌で(93歳)亡くなった人物である。彼に関しては興味ぶかい話がある。
 長い間、山口氏は、長崎での原爆投下(1945年8月9日)で生き残った被爆者として登録されていた。にもかかわらず、日本政府は二〇〇九年三月になってはじめて、長崎の原爆投下より3日前に起こった広島でも放射能を浴びた生存者の一人であることを認めたのだ。
 日本政府当局は、最初、彼が受けている補助金に何ら影響を与えるものではないという理由で二度の原爆被災者と認定することを拒んでいたが、やっと、譲歩したのだ。山口氏は広島で三菱重工の船舶部門に勤めていた。