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自伝小説=月のかけら=筑紫 橘郎=(30)

 先の古里の父の手紙には、「誰がお前の様な者を日本の親元まで訊ねて下さるか。この様なご厚意の方をけして無にするでない」と孫達の事まで得々と書いてあったのだ。
 そして一九六七年一一月、カンピーナス一三〇万都市近郊、ベーラ・アリアンサ伊藤、第一種鶏場に飼育掛りとして、太郎は赴任した。この種鶏場は、カンピーナス市から二キロ地点の市街地に位置し、世界的企業とか商社の広大な敷地の並ぶ一角の六十アルケール(三百アール)もの将来性抜群の立地。太郎にしても、身命を注ぐに余りある第二の人生に相応しい職場であった。
 その頃、ブラジル養鶏界は採卵率が低い在来種で、品種改良が緊急課題だった。その件について伊藤種鶏場は、先見の目があるのか、既に日本仕込みの鑑別士(従弟の伊藤悟氏)をブラジルから北米に送り込み、品種改良状況をいち早く把履、導入を模索中だった。その為の人材確保に専門家主体に伊藤氏が奔走されたが、眼に叶った人材に恵まれず、その結果、無学だが実力派、寝る間も惜しむ、ド真面目と見込んだ千年君に白羽の矢を立てたのだった。
 さて、こうして、千年君の勤務半年後、北米きっての最優良品種ハイライン種のアボゥス(親の親鶏)五百羽が、政府の認可によってブラジル国に持ち込まれた。アメリカ品種ハイラインを初導入したカンピーナス市のビ―ラ・アリアンサ種鶏場で、千年主任飼育係りの手で、「蝶よ花ョ」と心血を注ぎ育てられたのであります。何しろこのヒナは、米国本社からいろいろ飼育に条件が付いていて、一羽当時??ドルの絶対門外不出の代物。ここで失敗すれば、伊藤種鶏場は倒産間違いなしと囁かれた。
 値を聞いただけで、手が震えるほどの高値。なるほど種鶏場としては、難しい飼育に渾身の努力をした。その結果、一年後にようやく産卵鶏用ヒナで、北米ハイライン種を誕生させた。飼育産卵率共に向上し、在来品種と格段の格差に当国養鶏農家に貢献、その後はハイライン一色になって行った。
 ちなみにこの業績は、伊藤元二社主はもとより、その品種選択を一任された甥の伊藤悟氏にある。その功績は、正に日系コロニア稀なる養鶏業界きっての業績だと、飼育主任の千年太郎氏は後のち語ってきた。その結果、伊藤元二社長は千年太郎氏を一九七一年に、伊藤種鶏場「本部種鶏部門」主任に栄転とさせた。
 一九七三年には、我が子共達の進学、通学等々を考えた上で、伊藤種鶏場を勇退。今後の自立独立に、この地カンピーナス市に定住を決断した。ここに千年氏、一生一代の決意を持って「月のかけら」人生に大転換のときが訪れました。
 今日までの彼の人生は、常に謙虚で公明正大にして裏表の発言がないものだった。取り方によっては一時的には軽口のようだが、その実、善悪の区別には「口に衣を着せぬ」毅然とした発言で定評があった。
 町の知人友人の特別な応援で、カンピーナス市立中央青果市場(セアーザ)内の目抜き通りを獲得し、野菜果物の問屋卸店「福岡屋」を開店した。
 ここでも同業者、市内各有力者一般の小売業者の皆々さんが訪れ、お声を掛けて下さり、千年君は種鶏場に勤務した時代以上に大成功した。その勢いは来る年もとどまらず、年末に宅地購入。年明けには新築住宅を建設開始。ここに来ても評判は順風満帆だった。
 年明け早々、来るわ来るわ、全然知らぬ人まで人につられて、千年太郎の面前にきた。