73年前(1943年)の7月7日、社会政治警察(DOPS)はサンパウロ州サントス市の枢軸国移民に24時間以内の強制立退き命令を出し、翌8日朝10時には第1陣215人がサンパウロ市の移民収容所に送られた。直前にアメリカ商船2隻とその荷物を積んだブラジル貨物船3隻がサントス沖で、ドイツ潜水艦が放った魚雷によって撃沈されたからだった。退去させられたのは主に日本移民で約6500人、それとドイツ移民215家族だった。ブラジル史上、希に見る大規模な民族迫害となった▼『南米の戦野に孤立して』(岸本丘陽著、曠野社、1947年、38頁)には、撃沈後の様子が生々しく描写されている。《翌朝未明、サンビセンテの日本人の漁夫たちが沖合から網を引いて力一杯舟を漕いできたが、平日より馬鹿に重い。今頃大漁のある時節ではないはずだが、これは一体どうしたことだろう?と不思議に思いながら浜辺に引き揚げて見たら、中には三人の死体が入っていた。しかもそれがアメリカの高級船員で、日の高く昇るにつれて、海水浴場である風光明媚なゴンザガ海岸へは幾十という死体が波に打ち上げられてきた》。衝撃の情景描写だ▼この本は出版直後、DOPSから禁書にされた。帰化人・岸本昂一は刑事裁判にかけられ、ブラジル籍を剥奪のうえ国外追放処分にされそうになった。コンデ街やサントスの強制立退き、そして戦中の理不尽な獄中生活に関して、彼は終戦直後47年時点で、ありのままに書き残した唯一のジャーナリストだった▼誰もが震えあがるDOPS―その残虐な行為を描いたがために、彼も迫害を受けた。今なら「勇気あるジャーナリスト」と称賛されても、当時DOPSに逆らってまで彼を支援する人はごく少数だった▼最近、パウリスタ新聞1949年5月19日付に『サントス引揚げ家族は何処?』との記事を発見した。いわく《帰化人も病人も仕事の都合も何もあったものではない。悪徳商人には足元を見すかされ、鶏一羽一ミル、豚一頭二十ミルという本当の二束三文の値で買い占められたが、捨てるよりはまだましと、売れるものはみな売ってしまった》との悲しい現実▼サンパウロ市の移民収容所に送られた後も《カーマもコルションも超満員で寝るところもなく、食事は一日一回というありさま。幼児は栄養不足で病気になった。ここで乳飲児を死なせた母もいる。疲労と悲しみと飢えと寒さの幾日かのうちに発狂したものもいた。送られて来る汽車の扉も収容所の扉も、かたく錠をかけられ、実に捕虜と同じ待遇であった》。そこにサンドイッチや衣類の差し入れをしたのが、ドナ・マルガリーダらサンパウロ市カトリック日本人救済会(現救済会)だ▼立退き者の多くは《終戦ととも、サンパウロ市野菜市場に進出するもの、街を売って歩くもの、あるいはキタンダを開くもの等が現れ、各々生計を立てている。現在のサンパウロ市青物市場にズラリとバンカを並べているのは、大多数これらの人達である》とも書かれている▼サントスの地元紙ア・トリブナ43年7月11日付にある首都リオからの特別寄稿記事に戦慄を覚えた。《内なる敵》と題され、日本移民を海岸部から追放したことで、サンパウロは〃素晴らしい模範〃を見せたと称賛していたからだ。日本移民は「内なる敵」として扱われた時代があり、それを我慢して乗り越えた先人がいるから現在がある▼奇しくも岸本が会長を務めた新潟県人会はこの日曜日、創立60周年式典を行った。その華やかな様子を見ながら、ふと戦争前後の日本移民迫害と同じことが、現在は起きていないだろうか…と思いを巡らせた。国家が道を誤らないために、語り継ぐべき歴史を日系人はたくさん持っている。(深)