第8章 恩赦
戦争が幕を閉じる前後から、ブラジルでは臣道連盟が活動しはじめた。臣道連盟は1945年に創立された組織で、一世(日本生まれの日本人)やその子孫でありながら、日本帝国への忠誠心を欠いたりした者に対して、暴力行為を実施していた。
戦争が終わると同時に、日本の敗戦を認める人々「負け組」と、「勝ち組」の強硬派は抗争をはじめ、サンパウロ州を中心に二十人余りを殺し合い、百四十人に怪我を負わせた。
勝ち組の強硬派の一人池田アントニオは、彼に与えられた任務を成し遂げることができず、逮捕され、拘置所で兵譽と再会したのである。兵譽とその仲間はイーリャ・グランデから戻ってきたばかりであった。
二人は、拘置所に入れられている日本人の恩赦願いを審議するための裁判が遅れていたために、互いに話し合う時間があり親交を深めることができた。恩赦願いの遅滞は、世界中が枢軸国との国交を再開するための運動に力をいれ、そのために時間が多く割かれていたからである。囚人の多数は有罪判決が決定していないにもかかわらず、一九四三年から拘置されていて、まだ判決待ちの状態であったのだ。
一九四七年十一月一〇日に拘置所は、政治・社会治安局から申請されて日本人の拘留者リストを作成した。裁判待ちの拘留者はフサキチ・フジイ、ヒデオ・オガワ、ヒンサナト・ミタケ(もしくはヒサナト・ミタケ)、ヒサオ・イケハタ、ニサシ・カイ、カスメ・ノセ、カツト・カイ、カツト・ヨシマ、コレイ・カト、コサル・ゴト、マサオ・フジイ、マサオ・ホンダ、ノブオ・ミアバラ、オユキオ・フジイ、蒸野サンゾ、サトリ・ヤマモト、セイキシ・ハイカワ、重男・ヒラマ、スギオ・ヤマ、もしくはスエト・イヤマ、タカオ・オシワ、池田龍生(もしくはアントニオ)、テツオ・クガ、トミオ・アオキ、トシオ・ヒラマ、トシオ・ヨキモト、ヤスジ・ヒラタ、ヨシオ・クトニ並びにゼンゴロ・ヨシオカとなっていた。
裁判待ちのなかには婦女もいた。イオ・ヒラマ、サダコ・ヒラマ、サコ・フジイ、テル・シナイ並びにトシコ・ゴトである。その他、政治・社会治安局の捜査待ちの三人、山下博美、ヒサオ・イケハラ並びにマサブロ・ヒラオカがいた。もう一人、キヨタロ・ニゴロが第2軍団で裁かれていた。国家治安裁判所で有罪判決を受けた者は、平兵譽タイラをTahiraと「h」で書いてある)、日下部雄悟、居城半藏、安保キタロ、杉俣政次郎並びに西山武雄であった。またリストにはその他日本人ではない三人の名前が列記されてあった。
居城半藏は他の痩せて(骨と皮といった感じの者が多かった)ふさふさした黒髪といった日本人の姿のとは異なった容貌をしていた。彼は、太っていて、頭部の後ろや耳の当たりに数本の髪の毛を残して、禿げあがっていた。赤い顔をして、しょっちゅう汗をかくので囚人服に汗の染みができている。
その半藏と兵譽はすでに知り合いだった。二人は最初、移民収容所で出会っていたのだ。半藏がサンパウロ州西部のアンドラジーナ市近くの農場を出て、新しい仕事場を求めて収容所に舞い戻ってきたときの知り合ったのだった。
半藏は、両親、兄弟、叔父、従兄弟の総勢十三人家族構成でブラジルに移住してきていた。平家より三年前の一九二八年にブエノス・アイレス丸で移住してきたことになる。
そして、トレス・イルモンス農場に配耕されたが、そこには半年しかいなかった。その耕地で日本人はコーヒーと棉栽培の組合を結成し、苦しい生活を送っていた。作物を植えるための費用をどう捻出するかが問題だった。土地代を払えば作付けを断念しなければならない。作付けしていつかスペイン人から土地を買い取るかという選択肢もあり、頭をいためていた。
この耕地には四〇家族がはいっていたが、全般的に栄養不良のところへ、40度以上の高熱に襲われるマラリアが流行り、居城半藏は毎日のように死んでいく若者、大人、老人を見る羽目になった。何と、三か月以内に家族の三人も死んでしまったのである。