ホーム | 特集 | 石鎚神社=ブラジル唯一、珍しい山岳信仰=60周年記念の奉祝大祭=早朝の山頂で祈る伝統の儀式
山々を望む山頂で御神体に祝詞をささげる(蓮井康恵さん提供)
山々を望む山頂で御神体に祝詞をささげる(蓮井康恵さん提供)

石鎚神社=ブラジル唯一、珍しい山岳信仰=60周年記念の奉祝大祭=早朝の山頂で祈る伝統の儀式

津野アマデウさん(右)と娘の早苗さん

津野アマデウさん(右)と娘の早苗さん

 ブラジル石鎚神社スザノ遥拝所(津野アマデウ所長)は3日、カッチンガ山へ御神体を運び祈願を行う「お山開き大祭」を今年も開催した。その後、遥拝所で祈願や餅まき、直会などが行われ、地元の人々をはじめ大勢が集まり、賑やかに創立60年の節目を祝った。

 まだ薄暗い時間から参加者は三々五々集まり、澄み切った空気の中、早朝7時に遥拝所近くを車で出発し、一行は一路カッチンガ山麓を目指した。老若男女、日系非日系を問わず、総勢約200人が御神体とともに山頂を向かった。この日は晴天に恵まれ、ロープを伝いながら道なき道を登り、約1時間で山頂へ到着した。
 さっそく祭壇が組まれて御神体が祀られると、法螺貝の合図で祝詞が奏上され、全員で厳かに祈願をした。遠くに山々を望む絶景の中、お神酒やおにぎりが振舞われ、各々が写真撮影をするなど山頂での一時を楽しみ、下山となった。
 モジ市に住む鈴木レジーナさん(51、二世)は、同神社功労者の孫だという。「祖父のことを思い出す良い機会」と家族で毎年登拝している。今年で5回目だという娘のパトリシアさん(20)も「山登りは好き」と語り、この習慣がまだまだ受け継がれる様子がうかがわれた。


遥拝所で五穀豊穣と交通安全=餅まきと直会で和気藹々と

にぎやかに餅まきをする様子

にぎやかに餅まきをする様子

 その頃、遥拝所では登拝出来なかった年配者などが早くから集まっており、日本の石鎚神社のお札の無料配布や、お守り等の販売も行われていた。正午過ぎには、下山した人たちも加わり、再び法螺貝の合図で遥拝所での大祭が開始した。祝詞が奏上され、信者や参拝者らの家内安全と五穀豊穣の祈願が行われた後、それぞれが本殿へと参拝していた。
 祈願後、拝殿横で地元青少年グループによる和太鼓の奉納と「餅まき」が行われた。用意されたのはもち米6俵分。前日に地元や協力者が杵と臼で丁寧に搗き、『石』の刻印が押されている。最初に東西南北それぞれに一つずつ鏡餅大の餅がゆっくりまかれた。続いて、小さな餅が沢山まかれると、集まった人々はわれ先にと手を伸ばしていた。
 唯一拾った餅を孫に渡していたのは、リベイロン・ピーレスから来たというデラルシア・マズカット・デ・フレイタスさん(63)。ご主人と娘さん、孫さんと一緒に初参加した。「ここは良いエネルギーを感じるし、大祭の祈願も素晴らしかった。来年は山へ登拝してみたい」と意気込んでいた。

鳥居をくぐって行なう珍しい交通安全祈願

鳥居をくぐって行なう珍しい交通安全祈願

 また、「車の交通安全祈願」も人気の一つだ。神社入り口の鳥居の横で、津野所長が玉串を持って祈願する中を、車がくぐりぬけて境内を通過し、別の鳥居をくぐって出るというもの。当地では珍しい祈願に非日系の姿も多く見られ、約100台が列を連ねた。
 午後2時頃より直会と呼ばれる昼食会も行われた。前日や朝から約80人ほどで準備した刺身や寿司などのご馳走や飲み物が、長い机にずらりと並んだ。会場の扉が開くと大勢が一斉になだれ込み、体育館ほどもある大きな会館はあっという間に一杯に。立食形式でお互いの近況などを和気あいあいと語らう等、60周年の節目を賑やかに締めくくった。
 「60年やって来られたのは、功労者や地元の人の協力があってこそ。今後もその家族が受け継いでやってくれるはず」と、津野所長は感謝を述べ、今後更にこの信仰の伝統が続いていくことを確信していた。


奇跡から始まる遥拝所の歴史=日本七霊山の霊峰にみたて=深夜神に乞うと恵みの雨=今も続く石鎚の山岳信仰

神社を建立した初期のころの写真

神社を建立した初期のころの写真

 今年で創立60周年を迎えた、伝統あるブラジル石鎚神社スザノ遥拝所。年に一度、カッチンガ山へ御神体を運び荘厳な祈願をする「お山開き大祭」を行なっており、今回も地元の人たちが大勢集った。当地ではごく珍しい山岳信仰といえる。その始まりは、何と『雨乞い』だという。
 1950年、サンパウロ州モジ・ダス・クルーゼス郡(当時)スザノ近くに位置するカッチンガ山の山間に、高知県出身の津野長太、田辺のぶとし、横飛正則、海治峯吉ら4家族と、もう1家族、計5家族の日本人移民が自分の土地を購入して入植した。山を開墾し、ジャガイモを主とした農業を始めた。入植当初は順調で、作付面積も毎年増やしていった。
 しかし1955年は雨が降らず、ひどい旱魃に見舞われた。当時は現在のような灌漑設備もなく天候任せであったため、農作物の全滅が予想された。5家族ともに空を仰ぎ、ただため息をつく毎日だったという。
 そこで津野長太が、「カッチンガ山で雨乞いをしよう」と他の4家族に持ちかけた。津野が生まれ育った故郷には石鎚山があり、幼少より「本当に困った時は神様に祈れば願いが叶う」と耳にして育ったため、山岳信仰を持っていた。
 入植地の山間から見るカッチンガ山が、どことなく石鎚山に似ていると以前から思っていたこともあり、この困ったときの〃神頼み〃を考えついたようだ。
 四国山地西部・高知県に位置する日本百名山、石鎚山は標高1982メートルもあり、日本百景のひとつだ。西日本最高峰で、山岳信仰の山として広く知られている。また日本七霊山でもあり、『霊峰石鎚山』とも呼ばれる。
 善は急げ――カッチンガ山近くで猟師をしている人の案内で、原始林で覆われた山を登り始めたのが午後4時頃。1時間ほどで着くはずが道に迷い、山頂に辿り着いたのは夜中の12時だったという。
 さっそく雨乞いの祈りをし、午前3時頃に下山。麓まで戻った頃より、不思議にも雨が山間部にだけ降り続いたという。
 恵みの雨――となり、豊作に。翌1956年、津野長太はお礼参りにと、22年ぶりに故郷・高知に足を運んだ。霊峰・石鎚山を登拝し、石鎚神社より御神体3体を譲り受けて帰伯、仲間と共にカッチンガ山頂へ祀り祈った。また、遥拝所を建設し、御神体を安置した。
 それ以来、毎年7月の第一日曜日に御神体を山へ御動座し「山開き大祭」が行われるようになった。参拝者は年々増え、地元の人たちや功労者の協力で、大祭も何百人規模のものに変わっていった。
 さらに長太氏亡き後、長男アマデウ氏の仕事の関係で津野家とともに御神体はブラジリアに移った。大祭の際に1千キロ以上の距離を移動して遥拝所に運ばれる。現所長のアマデウ氏は年に一度の大祭のためにと、実家の隣に体育館ほどの広さの食事会場や、100人以上を収容できる宿泊施設を建設した。
 創立60年の節目を迎えた今回は、当時の5家族の子孫を中心に和気あいあいとした雰囲気で大祭は開催され、約500人が参集した。「日本の石鎚神社本部の御愛念と、今は亡き功労者や地元の方々のお陰で現在に至っている」とアマデウ所長は語っていた。