兵譽(へいたか)の新しい住家となったドゥッケ・デ・カシアスの家を、エレオマルは退職金で買ったのだ。兵譽はこの友人の家に温かく迎え入れられた。それは何故このように温かく自分の世話するのかと不思議に思えるほどであった。
三十八歳になっていた移民の兵譽は、早く食い扶持を探さなければという義務感を感じるようになった。物書きになる夢を捨てて、ドゥッケ・デ・カシアスに創設したばかりのリーデル道場で、柔道の指導者としての働き口を見つけ、職に就いた。
その給料で土地を買い、少しずつ、寝室、応接間と台所のある小さな家を建てた。鹿児島生まれのこの侍が手にした人生最初の勝利であった。鹿児島は、一八七七年に五〇歳で亡くなった最後の侍、西郷隆盛の出身地である。
西郷隆盛は武士道を全うするために、刀を手に最後まで戦った本当の意味での武士であり、明治維新後に急激に衰えた侍の規範を守り通した人物だった。
兵譽は畳の上では、武芸の師としてみなに尊敬されていた。エリオとリンコンの二人の息子のうち、リンコンは父親に連れられて、父親のもう一つの職場のヴァスコ・ダ・ガマクラブへ行ったことを覚えている。英新の指導者としての腕前は認められ、サンパウロの倉知道場の祝典に招かれ、その技を披露したほどである。兵譽はリオでの生活にも慣れ、土地にも馴染んでブラジル人と同じようになっていた。
朝はコーヒーを飲み、バターを塗ったパンを食べていた。そして、身体に悪いからと煙草も止めていた。ビールやカシャサ(砂糖黍の蒸留酒)もほとんど飲まなかった。朝、仕事に出かけ、昼食に家に帰り、ちょっと休んでから、また道場に出かけるのだった。
夜は夕食の後、椅子とラジオを裏庭にもちだし、座って雑音だらけのラジオでニュースや音楽を聞いていた。
兵譽は強運の持ち主だったのであろう。一九五〇年代には日本の武芸、特に柔道や空手は、日本の有名な道場出身者が移住していたこともあって、ブラジル人の関心の的となっていた時期でもあったのだ。
その時代に、日本のスポーツ協会は公的に「段」というシステムを採択している。武道の練習生が、武芸の種目によって、9段か10段まで上り詰めることができる「段」というシステムを考案したのである。
ブラジルの空手界で最も知名度の高い一人、瓜生サダムも、自己の技を示す場としてリオを選んでいる。彼も他の移住者と同じようにサントスに入港し、働きながら一歩ずつ目的達成に向かって精進した一人である。
一九六〇年代より日本の武道を習得する人が増大した。それは日本のテレビ映画のシリーズ物がテレビで放映され、カッコいいヒーローが特技とする技で宇宙人や地球人をバタバタと倒していたからでもある。ブラジル全国で毎日のように新しい道場が開設され、子どもたちが白い稽古服を着て、「俺は強いんだ」という誇らしげな態度で道を歩いている光景が見られた。
兵譽の生徒は日増しにふえたが、彼はそれを喜びもしなかった。家長として何年か過ごし、子どももでき、住む家もできた今、同じことのくり返しの毎日に物足りなさを感じ始めていたのだ。彼は自分の過去を誰にも話したがらず、家族や兄弟のことも謎に包まれたままだった。
彼の妻のアパレシダ・マリアも自分の世界だけに閉じこもり、鬱病も悪くなる一方だった。最初のうちは、彼女がベッドから起き上がれず、泣いてばかりいるのを見て、夫も心配して「何があったのだ? どこか痛いのか? 何か欲しいのか?」と声をかけたりしていた。
当時は患者の精神状態までは配慮されない時代だったから、貧血症だと診断され、レバー、豆、ビートー、種々のお茶や果物などを摂取するように言われていた。アパレシダ・マリアが病人扱いをされずに普通に話しているのを見かけることは珍しいほどであった。
ある日、兵譽は気晴らしに家族を連れてコパカバーナ海岸に連れて行った。子どもたちがまだ小さい時である。エリオが三歳、リンコンが一歳だった。
子どもたちの母親は水着になるのを恥ずかしがり、渚で足を濡らしただけだった。兵譽はそれもしなかった。砂浜で子どもたちが遊ぶのを見ているだけであった。そしてこれが、兵譽が妻にできる精一杯のサービスだった。二人の心はだんだん遠ざかっていくようだった。
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