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日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(31)

 一九五五年三月三日、雨の夕ぐれ、近所の子どもジョズエーがリーデル道場に駆け込んできて、「奥さんの具合が悪い」と先生に伝えた。家に駆けこんだ兵譽は死んでいる妻を見ることになった。自殺だった。
 兵譽が午後から仕事に出かけた後、子どもを寝かせ、台所の床に座り、アルコールを自分の体や服にかけ、マッチを擦ったのだ。隣近所の人は、叫び声も何も聞こえなかったと証言した。異変に気づいたのは、黒い煙が窓からもうもうと出始めてからだったという。
 この事件があってから数日は、この日本人の家は好奇心の的になってしまった。警官にまじって、何人かのレポーターや野次馬が毎日のように押しかけたし、ドラマ化されて、ある事ない事が仰々しく書かれ、大いにマスコミを賑わし、大衆向けの雑誌や新聞の販売数ものばしたのだった。
 少なくとも二週間ほどは若い母親の自殺が大きな話題になった。アパレシダ・マリアはエリオとリンコンが生まれる前に娘を無くしていて、その事が鬱病の原因だとされた。
 兵譽も警察に呼ばれ、事情を聞かれたが、彼は疑いの圏外にいたために証言をとられるだけに留まった。彼が心配したのは、自分の過去が調べあげられ、そこから発展して、妻の異常行為の理由として問われることであった。
 ひと月足らずで、捜査は殺人の容疑をすて、自殺と判断した。悲嘆と悔恨が兵譽をおそい、彼はますます寡黙になっていった。妻が自殺してからはじめて、彼女の異常な精神状態に背を向けていた自分に気づいたのだった。
 結局、兵譽の結婚生活は五年だった。アパレシタの死後、女の人と一緒の姿を見たものは誰もいない。息子の面倒を一人でみて、家事も自分でするようになった。子どもは自分と一緒に道場に連れて行き、そこで、稽古が終わるまで待たせた。こんな状態は子どもたちが学齢期に達するまでつづいた。
 その当時の兵譽の気晴らしといえば、門の所で近所の人と話をするくらいだった。自分や子どもの娯楽などには無頓着で、せいぜい、門前で話すだけであった。


第13章  旅路

 ある朝、兵譽は道場主に「旅に出るので子どもたちの面倒を見てほしい」と申しでて、詳細は語らず、驚く道場主を後に旅立った。それは、若い頃、親のいうことを聞かず、説教をつづける父親のいうに任せ、黙って家を出て反抗的だった彼と何ら変るところのない姿だった。
 襟がきちんと立ったバリッとした長袖の白いシャツを着て、グレーのスーツ姿で兵譽はバロン・デ・マウアー駅の木のベンチに腰かけ、そして、遅れることで有名な電車サンタクルス号を待った。
 その夜、四〇分も遅れている電車を待って、乗客はいらいらしていた。長いこと待った後、やっと、2席ずつ並んだ席に座れた。いらいらしていた乗客も笑顔をとり戻し、電車のなかはすぐに打ち解けて楽しい雰囲気の団欒室に様代わりした。
 兵譽の隣には軍服姿の軍人が座った。肩の記章から高官であることが分かった。その軍人は上着の左胸ポケットから葉巻を取りだし、近くに座っている者たちが注視していることに気がつくと、許可を得るように何かしらつぶやきながら、葉巻に火をつけた。
 と同時に車内はアフロブラジルの宗教、ウンバンダの礼拝堂の中のような匂いが漂った。車内の幾人かは顔をしかめたが、兵譽は、その当時、一般市民が吸っていた枯葉で包んだ巻き煙草とは違う匂いに心地良さを感じ、うっとりした。
 サンタクルス号はリオからサンパウロのバーラフンダ駅までの四〇〇キロを、平均10時間から12時間かけて走るのがふつうだった。時間について文句をいう者は誰もいなかった。安楽椅子はゆったりとしていて睡眠を充分とることもできた。乗客はバーラフンダ駅から四散する。
 サンパウロ州の奥地に向かう者はそれぞれ市内電車に乗ったり、ジャルディネーラと呼ばれていた乗り合いバスに乗ったりしてジュリオ・プレステス駅に向かい、再びパウリスタ鉄道社の列車に乗り換える。