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日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(33)

 一人の二世(日本人の子弟)が彼とすれ違い、行儀よくお辞儀をした。彼もそれに応えてちょっと頭を下げた。若い二世は兵役中のようで、士官候補生の軍服を着ていた。
 その姿を見て、兵譽は過去の恨みなど払拭して、新しい時代を生きている人々を目の当たりにして、感慨深かった。リオでは日本人の植民地もなく、そういった時代の移り変わりも感じることもできなかったのである。サンパウロ州の奥地にきてみて、兵譽は求めていた答えを見出した思いがした。
 兵譽を最も感動させた再会は、バストスの「レアルホテル」で、ホテル主の本田に出会った時であった。本田は兵譽を認めると目を見張り、カウンターから飛び出しロビーを駆け抜けてきた。本田は日本語の書物などを丁寧に隠してくれたし、ホテルの奥の間で非合法な大政翼賛の会議に同意し、匿ってくれた人物だったのだ。
 新潟生まれの本田ミノルは、一九一〇年にブラジルに移住してきた。船は旅順丸で合計九〇九人の移住者が乗ってきたのだ。旅順丸は竹村商店の持ち船で、倒産した帝国移民会社から引き継いでいた。帝国移民会社は倒産の理由として、移住者が配属先の農場での不当な扱いに不満をもち、契約を履行しなかったことを挙げている。七〇歳以上の本田さんはまだまだ働く意欲満々だった。白髪はほとんどなく、年を感じさせるのは、震えをともなった緩慢な動作ぐらいなものであった。
 彼らは夜が更けるのも忘れて、昔の思い出話に浸ったが、話題のなかには笑い興じるようなものはなかった。本田さんは成功者といえた。五人の子を授かり、それぞれ裕福に暮らしていた。何人かは彼がアシスに買ったコーヒー、綿、玉蜀黍の栽培、牧畜などを有する農場を経営していた。
 兵譽は、サンパウロ州の奥地での見聞に自分が納得する思いがして、全てが無駄に終わらなかったと、気分が軽くなった。自分の家に帰る途中、サンパウロ州奥地で見たことを考えていた。少しずつ、日本人に対する偏見は氷解し、目的に向かい、真面目に働き、規律正しさを示し、熱中することを知っている民族の姿を認めざるを得なかったのだ。
 日本人は釣りの技術を開発し、農業においては害虫の駆除法を見出し、組合のシステムを教え、新種の果物や野菜を開発していた。芸術家の上永井正(1899~1982)や日系の森ジョージ(1932~)などは美術方面でその名を馳せ、カンディド・ポルティナリの友人でもあった。料理では、サンパウロの住民は寿司、刺身、てんぷらといった東洋の味に接している。
 リオ州で最初の移民船「かさと丸」からの移民の歴史を綴った歴史館の開館式に出席した後、三笠宮殿下は、ブラジリアの新首都の工事を見学するためにジュセリノ大統領に案内されてブラジルの中央高原地帯に向かった。
 ブラジルの大統領は日系人の労働者を何名か引き合わせることに固持した。三笠宮殿下の随員が、天皇と一般人を対面させるわけにはいかないと、日本のしきたりを説明したが、大統領は聞く耳を持たないといった感じで、自分の意見を押し通した。その結果、皇族と臣下の涙の対面が実現したのである。
 その年にブラジルで初の日系の政治家も誕生した。サンパウロ州で平田ジョン進が連邦議員に当選したのだ。そして、成田空港までの直行便を設けた航空会社のヴァリグ社が創立され、日本はもっと近い国になっていた。
 日本は原爆投下の甚大な被害にもかかわらず、短期間に復興し世界を驚かせた。日本は外国に投資をはじめ、ミナス州の鉄の谷のウジミナス鉄工所を発展させもした。しかし、それは日本が一九六四年に行ったオリンピック開催の偉業とは比較できない。なんといっても原爆が投下され、多くの町を焼き尽くした空爆から、まだ一九年しか経っていなかったからである。
 東京で行われた第16回オリンピックは歴史に残った。開会式の時の最後の聖火ランナーになった坂井義則は、広島に原爆が投下された日に生まれたランナーだったのだ。