第14章 店主となって
戦後、リオのドゥッケ・デ・カシアス町でも、ブラジルの軍部の守護神ルイス・アルヴェス・デ・シルヴァに敬意を表して賑わっていた。特に一九六一年にペトロブラス社の製油所ができてからは、大規模な労働者の雇用があり、地域の住民を正社員として雇用していたので、ドゥッケ・デ・カシアスの町は繁栄していた。
町の商店も潤っていた。小物店の商店主で、兵譽がただ一人友人として付き合っているオタヴィオ・リマ・クルスがそんな折、パトリオッタ街の店を大きくしようと共同経営者として勧誘してきた。東洋人は貯蓄好きである。兵譽もその例にもれず、多少たくわえがあった。
その金の三万クルゼイロを何のためらいもなく小物店の共同経営者となるためにつぎ込んだのだ。そして、柔道の指導をやめ、商売を始めることになった。小物店といってもガスボンベから麻のズボン、洗顔石鹸、シャベルやつるはしまでも売っているといった店で、兵譽は何年もがんばった。兵譽は商売人特有の抜け目なさは持ち合わせていなくて、客が値切りはじめると顔をしかめて、嫌がるのだった。
流行をまねて兵譽も髪をのばしていたが、髪がこわいためまるでカーニバルの時に被るかつらのようだった。兵譽は店に来る客のほとんどがサッカーの話が好きなこと、話に花が咲くこともあり、話を合わせるためにサッカーチームのボタフォゴを応援していた。
メキシコでの一九七〇年のブラジルチームのワールドカップの勝利を祝い、ブラジルのサッカーチームのユニホームを真似た黄色いTシャツをたくさん売って儲けたりした。
店が儲かっていた頃、兵譽は再びサンパウロの奥地を旅行した。二人の息子を連れて行くこともなく、また、プレジデンテ・プルデンテに引っ越していた妹の藤子を訪れずれることもなかった。
大政翼賛同志会の活動をしていた頃に歩いた所を回っただけであった。これが兵譽の最後の旅行となったが、すべてが変化していたことを悟ることになった。
友人は引っ越して別な所にいたし、何人かは霧雨(ガロア)の町として知られるサンパウロ市内、正確にはリベルダーデ近辺に移り住んでいたりした。リベルダーデ区は東京のように人で賑わい、レストランでも店でもキオスクでも日本語が通じるのであった。
兵譽は自分の殻に閉じこもっていたが、二人の年頃の息子をかかえて六〇歳になり、小商売をつづけるだけだはなく、もっと大きな事を成し得るのではないかと模索していた。
二人の息子のうちエリオは二十歳で最初に結婚した。父親の土地に建てた小さな家に妻のアダルジザと住み、兵譽の最初の孫が生まれた。女の子で、アドリアナと名付けられた。何年か後にリンコンもエリザベッテと結婚し、アンデルソンとミシェルという二人の息子を授かった。リンコンはその後、再婚もし、レジスや他の幾人かの子どもを授かっている。
家族は増え、生計も大変になった。息子二人は小学校をでると勉強をやめ、サッカー選手になることを夢見るようになった。彼らは、友人でいつも二人を励ましていたペドロ・パウロと共にサンパウロ市内やリオの地方のチームの選抜試験を受けていた。エリオはゴールキーパーで、リンコンはフォワードだった。
しかし、いつも2次試験まで残るのは友人のペドロ・パウロだった。もっとも、彼は膝を痛めたために選手としての活動を止め、科学技師となり、兵譽の孫のアドリアナと結婚した。
エリオは身長一七〇センチほど、褐色の肌に髪をいつも短く切っていた。リンコンは兄より少し背が低く、痩せていた。彼の髪は縮れていて、長い間切らずにいると、黒人のような髪型になるのだった。
ブラジルサッカー界に東洋系の選手は存在せず、その障壁を乗り越えるのは大いなる困難であった。それは、イギリス人のチャールズ・ミラーがブラジルに導入したスポーツに、黒人が参加する権利を勝ち取るのと同じくらい難しいことであった。
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