「いかん、いかん。俺は一体なにしに来たんだ。女房の静江や子供を何とする。いかん、いかん。そんなお前じゃないだろう。どうした、どうした」と太郎は自分の頭を自分で叩きながら自問した。
自業自得で人様に笑われて、家族に悲しい想いをさせる自堕落を何とする。自分のふがいなさに、一人思い切り泣いた。そして太郎は肝に銘じた。
ここで生まれ変わろう。必ず静江の元へ帰れます様に、この千年太郎の思いが天に通じたまえと「一心不乱」に祈っていた。
そして一夜が明けた九時半。千年の姿は目黒区の大東建設本社にあった。服部企画部長、西口総務部長、そして十五名の課長四十三名の企画部社員が、出社各自席に付いていた。十時に服部部長が席に着き、西口部長がマイクで司会を始めた。
全員起立。
大きな声で「おはようございます」。服部部長から社訓示。次に本日の行動企画事項等々、次に総務部長から昨日の経過発表、および注意事項。本日は、新入社員紹介。西口部長が「千年君こちらへ」と呼んだ。
千年君は前方の部長の隣に立った。部長が「みな良く聞いてくれ。本日入社したブラジル在住の千年太郎君です。千年君、自己紹介してください。さ―あどうぞ」
「ハイ、皆さん。おはようございます。ただ今ご紹介に預かりました千年太郎(ちとせ)と申します。年齢(とし)はかなり行っておりますが、長年ブラジルで暮して来ました者です。日本の事は不勉強です。なにぶん慣れない、会話などでご迷惑をおかけする様な事もあるやもしれませんが、一生県命頑張ります。班は木下次長さんの班です。どうかよろしくお願いします」
そういって、深々と頭を下げた。一斉に拍手が上がった。この後、各自の班内で打ち合わせ、それぞれ作業に入るのでした。西口部長が「千年君、木下次長はちょっと待ちなさい。今日は木下君ここで一日仕事の説明とか打ち合わせをしなさい。それに千年君には僕達も聞きたい事があるからね」。
木下次長から長々と仕事上、また社内行動や、言葉使い、礼儀作法等々、一応、一通り終ったところで、西口部長さんが「木下君、今日はその位でいいだろう。これからじっくりブラジルの話を聞いておきたい。ところで奥さんはどうした」
「ハイ、彼女は横浜の家政婦紹介所にお願いして来ました」
「それで奥さんはブラジル生まれだそうだが、日本語は解かるのかね」
「ハイ読み書きは出来ませんが、日頃の会話には不自由はしておりません」
「あっ、そう。だったら、君は一緒に住むべきだ。夫婦離れて暮すなんて、そりゃぁいかん。直ぐに迎えに行きなさい。そうしなさい。そして良かったら、うちで働けば、奥さんに出来る仕事はいくらでもある。木下君、何か見つけてやりなさい。会社には独り者の寄宿舎もあったが、君が奥さん同伴で来ると、ブラジルの君の友達から連絡があった。君が成田に着く前だ。それなら、と急きょマンションを用意したんだ。
せっかくだから、奥さんを連れて来なさい。車は使えるだろうね。横浜はほんの隣だよ。それにこれは特別。今だから打ち明けて置くが、君は平社員じゃないんだ。実は皆の前では紹介出来なかったが、我々としては君のブラジルでの暮し向きは一通り調べさせてもらった。だから、わが社としてはかなり期待して採用したつもりだ。うちの仕事では、君は最初から課長待遇にしてある。奥さんじゃなくても詮索(せんさく)はせん」
まさに、聞いて驚く千年君であった。