ブラジルで、最初にサッカーの試合に出た日本人は三浦知良選手だった。「カズ」と呼ばれていたこの選手は15歳のときに一人でブラジルに渡り、モッカのジュヴェントス・スポーツクラブのジュニアチームで練習した。彼はサントスチームや日本のサッカー代表チームで輝かしい活躍をした。イタリアでもサッカーをやった。
日系ブラジル人でトカンチンス生まれのサンドロ・ヒロシ選手もサンパウロチームで活躍したが、CBF(ブラジルサッカー連合会)に生年月日を偽るといったスキャンダルで失脚した。また、二〇一〇年に南アフリカで行われたオリンピックでは、日本国籍に帰化したブラジル人の田中 マルクス闘莉王(トゥーリオ)選手もいる。
一九七二年八月に平エリオ・ヒデオは運転免許を取り、タクシーの運転手になるための講習を受けた。一方、リンコンはリオの町で舗道にポルトガル石を敷く会社に勤めはじめた。こうして、息子たちがそれぞれ独立して、家族を養うようになってから、疲れを感じていた兵譽は仕事を辞める潮時だと感じて、従業員を一人雇い入れた。
しかし、それを不満に思った共同経営者は彼の持分を買い取ることを提案し、その提案を受け入れた兵譽はその後、窮地に追い込まれることになった。一年も経たないうちに手にしたお金は家族の生活費や投資の失敗で消えていったのである。
失敗した投資には、山の危険地帯にある土地の購入が挙げられる。危険区域に指定され家屋も建設できないような土地を購入していたのである。こうして、平家の長男は息子やその妻の世話になることになってしまった。
兵譽は信仰心をもたない男であった。モンテヴィデオ丸で見知らぬサントス港に降り立ったときでも、宗教には無関心だったのに、自分や家族の将来のことを心配し始めた兵譽は、日蓮宗を13世紀に開いた日本の仏教徒の日蓮大上人の教えの一派(創価学会)に傾倒していったのである。
日蓮宗一派の集会所はブラジル全国に散在し、ドゥッケ・デ・カシアスにも、といっても信者個人の家なのだが集会所があった。兵譽はそのような個人の家に行くのは、気詰まりに思ってか、あるいはお返しに自分の家にも呼ばなければならないからか、応接間のテレビ棚の反対側に仏壇をおき祈っていた。他の信者の家を訪問するのは避けて、ひたすら仏壇に向かって手を合わせていたのである。
「アドリアナ、アドリアナ…、水を少しくれ」との呼び声に、小さな孫は水を持って飛んでいった。兵譽は喉に痛みを感じているようで、ゆっくり水を飲んだ。一口飲んでは咳をし、また水を飲んだ。
兵譽が初めて病気をした時は三十九度の熱にうなされて、病院に運ばれ、肺炎の初期症状だと診断された。家で処方された薬を飲みながら、病気がよくなるまで何日か寝込んだ。兵譽の最初の孫のアドリアナはお祖父さんっ子で、二人でよくおしゃべりしていたが、それでも、アドリアナも祖父の過去については何も聞かされていなかった。
ある土曜日、兵譽が日本人の何人かの友だちの訪問を受けたことがある。それはアドリアナにとっても家族にとっても、驚嘆すべきことだった。その日本人たちは自由に大声で話し、笑い、飲み、食べ、話題は尽きないようであった。兵譽とは同じのような年頃に見えた。一人だけ、太ってほっぺが赤い、白髪の人いたが、彼だけが、他より年上に見えた。
日曜日には、その人たちはサプイー川のほうに釣り道具をもって出かけ、そして、一日中外で過ごしたのだが、相変わらず、話は尽きないようで賑やかであった。友人同士のように振舞うのだが、おかしなことに、その夕刻の別れは伝統的に握手し合って頭を少し下げただけであった。
「さよなら、さよなら」と、駅に向かっていく男たちは大声で叫んだ。兵譽の家族も門前で「さよなら」と笑いながら叫びかえした。手を振りながら、男たちの様子が可笑しくて笑いつづけていた。
太陽が沈み始めていた夕ぐれ、客が見えなくなるまで門の前に立っていた。家族は兵譽がなにか説明してくれるのを待ったが、彼は頭を下げ、庭のいつも自分の場所に黙って消えていった。家族も何も聞かず、そんな彼をそっとしておいた。