パカエンブーのプールに日章旗掲揚を許可したサンパウロ州体育局長は、戦争中に日本人プールの使用を特別に許可した時と同じ「パジリア氏」だった。
パウリスタ新聞1950年3月28日付には、パジリア局長のコメントが掲載され、《この大会に外国選手が参加するということはかつてなかった。この例を破ったこと、そのものに我々は非常な悦びを感じている。我々が持つ日本及び日本人への深い友情の表れがこうした例外を作られたと言っても良く、スポーツを通じての友情を永久に続けていきたい》と記されている。
つい5年前までは敵性国民として扱われ、公の場での日本語使用禁止、3人以上の集会もダメだった。日本移民を嫌う官憲も多かった時代に、並みいるブラジル人選手を抜いて南米新記録を続々と樹立したその水泳団一行を、不思議なことにパジリア局長は快く受け入れた。
パ紙創刊当時の記者で、水泳使節団来伯時には日伯毎日新聞記者として一行に同行取材した水野昌之さん(92、愛知県)は、「パジーリャ局長はコロニアに理解のある人だった。だから掲揚が許可された。戦前からスポーツ洋品店をやっていた日本移民と仲良くしていたと聞いている。勝ち負けを超えて、私も含めてその場にいた皆が日の丸掲揚に心から感動した」と昨日のことのように思い出す。
歴史の要所要所に現れるこのような親日ブラジル人は、忘れてはいけない存在だろう。とはいえ、終戦から5年も経ち、日本から水泳選手団が来ても、祖国の敗戦を信じられない人々はコロニアにまだ大勢いた。
1950年3月28日付パウリスタ新聞によれば、マリリア市に本部があった全伯青年連盟は、古橋ら一行が来たことで、敗戦が明らかになることを恐れ、《大会当日、右連盟会員で入場した者には断乎として除名処分にする。といった態度を取ったり、競技当日に弁論大会を企画するなど、極力会員が水上選手たちに接する機会をさけることに務めたと言われ、同地一般に憤りを買っている》とある。
さらに同50年11月、マリシア市警察は、勝ち組を騙して帰国費用を巻き上げる詐欺団「国民前衛隊」一味50人を逮捕した。その指導者・山岸宏伯は「5・15事件の山岸中尉」を名乗るなど、純朴な勝ち組農民をだます詐欺だった。同市は特に、そんな勝ち負け抗争の余韻が強い場所だった。
でも一行の来伯がきっかけとなり、スポーツを通した日系社会の融和は少しずつ進んでいった。
水野さんは、「1カ月余り同行しましたが、あの当時、岡本のことはまったく意識になかった。フジヤマの飛魚一行のことだけ」と振り返る。
さらに「当時はコロニアに水泳選手なんていなかったから受け入れる人もいない。急きょ、柔道の大河内さんが旗を振ってテニスの人らと急ごしらえの受け入れ態勢を作った。だいたい当時はみんな貧乏だったから、プールのあるようなスポーツクラブに子供を入れられる人はほとんどいなかった」と時代背景を説明した。例えば当時、サンパウロ市の有名スポーツクラブは白人エリート階級が集う場であり、日本移民を受け入れるところはほとんどなかった。(つづく、深沢正雪記者)
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