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当日の参加者の皆さん(前列左から4人目が富重主宰)
当日の参加者の皆さん(前列左から4人目が富重主宰)

蜂鳥30周年和やかに祝う=75誌友の合同句集も上梓=富重家あげて発刊支援

 蜂鳥創刊30周年および記念合同句集上梓の祝賀会が7日午前、サンパウロ市文協の会議室で開催され、約50人もの来賓や誌友が集まり和やかに祝った。俳誌「蜂鳥」は30年前の3月に富重かずまさんが創刊したが、20周年の直前に亡くなった。以後、多くの誌友が周囲を支える中、妻・久子さん(88、山口県)が主宰を務めてきた。

蜂鳥発刊を支える富重家の皆さん

蜂鳥発刊を支える富重家の皆さん


 久子さんは祝賀会で「多くの誌友に励まされ、ここまで続けてきた。特に編集部員の方々、広田ユキさん、串間いつえさん、山本英峯子さん、田中美智子さん、馬場園かねさん、橋鏡子さんです。中でも合同句集製作は、普段の俳誌発行を続けつつ、半年間にわたる作業のたまもの」と賛辞を送った。
 合同句集には75誌友の顔写真とエッセイと俳句20句ずつが丁寧に掲載されている。俳誌発行には、久子さんの4人の子供が惜しみなく支援してきたが、「今回からは4人の孫らも加わった。私は幸せ者」と感謝して挨拶を締めくくった。
 来賓の浜照夫さんは「来る移民110周年に向けて次世代に俳句という日本文化継承を」と挨拶し、梅崎嘉明(よしあき)さんは「コロニアでは発行者がなくなると出版物も止まるのが普通。今も続く蜂鳥は文芸界の誇り」の言葉を贈った。
 蜂鳥後援会を代表して久子さんの長男・敏郎さんは父・かずまから聞いた話を紹介した。「出征する前に母から『戦争は辛い。俳句と音楽を心の支えにしなさい』と言われ、俳句の本とハーモニカを渡された。それ以来、それ一筋に生きてきた」とし、最後に「父は蜂鳥に憧れ、誌名にした。永遠に続くよう祈っています」と述べた。
 創刊号からの誌友、須賀吐句志、山本英峯子、佐藤節子、酒井祥造4氏に記念品が贈られた。須賀さんが代表してマイクを持ち、最初に巻頭句になった思い出の作品「褒貶の彼方の月日日向ぼこ」を読み上げ、蜂鳥の発展を祈念した。
 編集部を代表して田中美智子さんは合同句集への協力を感謝し、「普段は『文章書けない』と言っている人が、実は素晴らしい文章を寄せてくるのにビックリ。手元に置いて何度でも読み返し、感想文を送って」と呼びかけた。
 合唱、昼食の後、久子主宰の米寿祝いのボーロが切られ、シャンパンで乾杯した。会場にいた誌友・畠山てるえさん(83、東京都)に感想を聞くと、「友人に誘われて句会に。最初は1回だけ行ってあとは『できない』と断ろうと思っていたのに、皆さん良くしてくれるので気が付いたら20年続いた」と笑った。
 最後に当真千鶴さんは家族代表として「35周年に向かって進みましょう」と締めくくった。


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 『蜂鳥』30周年の誌友挨拶で田幹夫さん(水野昌之)は、創刊以前の苦難の道のりを振り返った。「かずま先生の才能に注目した日伯毎日新聞が『俳壇』の選者にと白羽の矢を立て抜擢すると、コロニア俳句界を構成する規制の俳人たちは猛烈に反発し、かずまを黙殺せよ、と総スカンの挙に出た。完全に異端視し、誰一人として日毎俳壇に投稿しません。俳句界を唯一指導する念腹師匠に誓っての態度です。おなじホトトギスより分岐した『菜殻火』は俳句にあらず、と認めようとしません。(中略)しかし、かずま先生はひるまず、わが道を行く、という気概で押し通された」と振り返った。その状勢から新人発掘・育成に情熱を注いだ結果、俳壇は盛況となり、育った俳人の発表場所として『蜂鳥』創刊に至ったと説明した。時代の生き証人らしく、歴史を感じさせる挨拶だった。