71回目の終戦記念日を15日に迎えたのを記念して、第2次大戦中にブラジル内にl0カ所あった強制収容所を専門家に取材した。北米日系人が強制収容された話は有名だが、ブラジル内のことは知られていない。日系人を中心に収容されたのはパラー州トメアスー移住地だけだが、南伯ではドイツ移民だけで約5千人、合計約1万人もが強制収容された。『Prisioneiros da Guerra(戦争の囚人)―ブラジルの強制収容所の枢軸国人たち』(Humanitas社刊、2009年)の著書のあるサンカエターノ・ド・スル市立大学(USCS)で歴史学を教えるプリシーラ・フェレイラ・ペラッツォ教授に詳細を聞いてみた。
ヴァルガス独裁政権は1942年1月に連合国側に付く事を決め、米国の指示に従って枢軸国移民の扱いを厳しくし、コミュニティの指導者を強制収容した。リオのフローレス島、イーリャ・グランデの刑務所を筆頭に全10カ所に集め、うちリオ以南が8カ所を占めた。つまり、日本移民が集中するサンパウロ州、イタリア移民やドイツ系が多い南部3州だ。基本的に枢軸国人が混在した。
「当時の外交文書から、ブラジル政府は米国から枢軸国人を強制収容するよう指示を受け、それに従ったことが分かっている。米国政府を満足させるためにやったことだが、その行為は明らかに人種差別に裏打ちされていた。だから白人でない日本移民は特に犠牲となった」と分析する。
「ブラジルは南北アメリカ大陸で最後まで奴隷制を維持した国だから、その代わりに入れられた外国人移民に対する扱いは奴隷に準じたもので、白人優先の差別思想には根強いものがあった」と時代背景を説明する。
ペラッツォ教授はイタリア系四世。「ドイツ移民も大変だった。当時、コミュニティ内でナチ党支持はごく一般的。思想的な影響はなくても、そのシンボルマークはかなりの家庭に普及していた。だから強制収容された人々の家族は『実態としてはナチズムと何の関係ないのに、戦後も差別が続くのは』との恐怖におびえ、心理的外傷を強く受けた。その結果、子孫には言葉を始め、文化一切を伝えない傾向があった」としドイツ系社会内のトラウマの深さを推し量った。
「最近の研究によれば、ドイツ系は指導者だけが強制収容されたが、日本移民の場合は移住地まるごと管理されたと考えられることが分かった。この数はこの本の研究に入っていない。戦争中の弾圧、その結果生じた勝ち負け抗争がトラウマとなり、日本移民も子孫に文化や言葉を伝えない時期があったと聞いた。ドイツ系と同じ傾向だと思う」という。
「今では強制収容されたのは1万人どころではないと考えている。なぜなら主だった日系移住地、例えばバストスなどは警察の厳重な管理下におかれ、移動の自由も奪われ、〃事実上の強制収容所〃だったと言えるからだ」。そう語り、ブラジルにおける「強制収容所」(campo de concentração)の定義自体を再考する必要に迫られているという。
「収容された本人はその苦い経験を墓場に持って行こうとする気持ちはよく分かる。だが、歴史として残し、二度と同じ過ちを繰り返さないようにするのが、研究者の役割」との立場を強調した。