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ブラジル水泳界の英雄 岡本哲夫=日伯交流から生まれた奇跡=(7)=戦前からの意外な繋がり

山本貴誉司から日本刀を受け取るパジーリャ(左、『Padilha, quase uma lenda』36頁)

山本貴誉司から日本刀を受け取るパジーリャ(左、『Padilha, quase uma lenda』36頁)

 調べてみると、確かにパジーリャは戦前からスポーツ局の仕事をしていた。ヴァルガス独裁政権からサンパウロ州執政官(1938~41年)に任命されたアデマール・バーロスからの信任が厚く、パジーリャはサンパウロ市アグア・ブランカ区のベイビ・バリオニ体育複合施設、イビラプエラ体育複合施設コンスタンチノ・ヴァス・ギマランエスなどの建設を開始していた。
 前者は今も全伯相撲大会の会場として使われ、後者には「南米の講道館」と言われる大柔道場がある。日系スポーツとも縁の深い施設を作っていた。
 ESPNサイトの「五輪のB面」特集15年3月24日電子版によれば、体育教師などスポーツを職業とする専門家の待遇を保証する州条例を、パジーリャは作った。その仕事ぶりに注目したヴァルガスは、その法律を国全体に適用させる手筈をパジーリャに命令するが、なんと拒否した。独裁政権時代のヴァルガスに反抗する人物など、当時ほぼ居なかったはずだ。
 激怒したヴァルガスは、軍人パジーリャをリオの奥地パッソ・フンドに左遷した。当時、電気も通っていない場所だった。パジーリャは知り合いだったドゥットラ軍事大臣に相談し、「大統領の命令に従えないから、不服従の罪で自分を逮捕してくれ」と申し出た。ドゥットラは1年間の無給勤務の特別処置で穏便に済ませようとしたが、パジーリャはその後、自分から陸軍を辞めた。
 選手として、最後のメダルの希望は1940年に予定されていた東京五輪だった。もちろん、それは第2次大戦勃発で中止。これは皇紀2600年祭の一環として誘致され、1936年に決定していた。しかし日中戦争の勃発により、日本政府が返上した〃幻の五輪〃だった。
 『Padilha, quase uma lenda』(『パジーリャ、ほぼ伝説』カエターノ・カルロス・パイオリ著、1987年)の35~36頁には意外な逸話が書かれていた。パジーリャが《生涯に受けた顕彰の中でも最も刺激的なものが、日系コロニアから1941年3月20日にもらった「サムライの刀」だったというのだ。
 しかも、渡したのはコロニア陸上クラブ(Clube Stletico Colonial)名誉会長だった山本喜誉司からだという。すでにサンパウロ州スポーツ局長だったパジーリャは、山本の自宅に招待され、赴くと、コロニアの主要人物やブラジル人運動選手らがズラリと勢ぞろい。
 前年の皇紀2600年(1940年)に日本で開催された体育行事に渡航するコロニア選手への助力を惜しまなかったとの理由で顕彰された。自分が行けなかった「東京」への願いを託したのかもしれない。それにしても戦後、サンパウロ市文協を創立し、初代会長になる山本貴誉司の人脈の広さには驚かされる。
 このような流れの中で、岡本が泳ぎ始めたマリリアの「日本人プール」は戦時中に書類が不備で一時使用禁止にされたにも関わらず、結局は異例の許可が出されたようだ。(つづく、深沢正雪記者)

『Padilha, quase uma lenda』
https://issuu.com/infinitumsports/docs/padilha_quase_uma_lenda?e=2830851/6376513