16日未明、ブラジル芸能界随一の派手な女性タレントとして知られた、エルケ・マラヴィーリャが入院先のリオの病院で多臓器不全のために亡くなった。71歳だった。
エルケは1945年に当時のソビエト連邦(現ロシア)で生まれたが、6歳のときにブラジルのミナス・ジェライス州に両親と兄弟と共に移住。後にブラジル国籍も取得した。
20歳のとき、リオでひとり暮らしをはじめる。8カ国語が堪能な彼女は当初、語学力を活かして、英語やフランス語の教師や翻訳家として働いていた。
だが、容姿端麗なこともあり、モデルの仕事をしている際に転機があった。国際的なファッション・デザイナーと顔を合わせる機会が増え、これが彼女の美的感覚に大きな影響を与えることになったのだ。
最大の出会いは、その当時、ブラジルのトップ・デザイナーだったズズ・アンジェルだった。ズズはハリウッドにも顧客がいたが、軍事政権下に学生運動家として軍政に歯向かった息子が1971年に突如行方不明となったが、実際は軍に拷問処刑されたことで知られ、本人も5年後に謎の死を遂げるという、この時代を代表する悲劇のヒロインだ。
ズズの息子の処刑説は、1971年に失踪事件が起きたときから噂されていた。そこでエルケはリオのサントス・ドゥモン空港で「本当は殺しているくせに。卑怯者」と叫び、「軍を侮辱した」として逮捕され、ブラジル国籍を剥奪される(後に復籍)憂き目にもあっている。
だが、エルケはこの件以降、テレビや演劇界から声をかけられ、女優の仕事もこなしていく。特に、70~80年代最大のバラエティ司会者、シャクリーニャの番組に番組内コンテストの審査員としてレギュラー出演したことで、知名度が一気に高まった。
70年代初頭の時点で、エルケは眉毛のメイクが超極細になっていたが、これが徐々にエスカレートして、顔はカラフルなメイクが施され、ヘアスタイルも目立って大きなものとなっていった。シャクリーナも大きなめがねと、光るラメ、背中に羽根をつけたド派手なカラー・スーツで知られたが、両者のツーショットは当時、ひとつの名物となった。
また、映画でも、国際的に評価を得たエクトル・バベンコ監督の「ピショット」で強烈な娼婦の役を演じている。彼女のメイクは、リオの娼婦からヒントを得たものが多かったという。
その後も、1993~96年には自身が司会をつとめる番組も持った。また、私生活では8度の結婚に、3度の流産を体験するという、波乱万丈の人生も送った。
その、一度見たら忘れない強烈な個性ゆえに芸能界内のファンも多く、死後も多くのツイートが同業者の間で寄せられていた。18日のお別れの会でも、エルケの遺体はおなじみのメイクと衣装のままだった。(16日付アジェンシア・ブラジルなどより)