戦争中にパジーリャの選手生命はピークを越え、1947年に現役引退。同時に、ブラジル五輪委員会にスポーツ振興の手腕をかわれて委員に就任した。48年ロンドン五輪ではブラジル代表の旗手として参加。ある意味、そこからが彼の本領発揮だった。
戦後もヴァルガスとの確執は続いた。ヴァルガスは1951年1月に、今度は選挙で選ばれて大統領に返り咲いた。前任のドゥットラ大統領(PSD、1946年―51年1月)は、ヴァルガス独裁政権時代の軍事大臣であり、基本的体制はヴァルガス時代のものを引き継いでいた。PSDとPTBが「プロ・ジェツリスタ」と呼ばれる政治連合を作り、それに対抗するUDNと共に戦後2大勢力となった。
一方、アデマール・バーロスは1945年11月の大統領選挙で、UDNに所属してヴァルガスと、たもとを分かった。むしろドゥットラの対抗馬であるエドゥアルド・ゴメス候補を応援した。
ここから、反ヴァルガス陣営の重鎮としてのパジーリャの活躍が始まる。
バーロスはサンパウロ州知事に選挙で選ばれ1947年3月から51年1月まで辣腕を振るった。この時に、パジーリャは再びサンパウロ州体育局長に招へいされた。
その流れの中で、彼はあえてヴァルガスが嫌がる方法でスポーツ振興する策を考えた。戦争中に連合国の敵だった日本人選手を招へいしてブラジル選手権大会に参加させることだ。ドゥットラ政権にはヴァルガスの影響は強く、それを強引にはねのけて1950年に日本水泳団を招へいしたのだ。
ESPNサイトの「五輪のB面」特集15年3月24日電子版によれば、《ヴァルガスとの確執は続く。シルビオ(パジーリャのこと)サンパウロ州スポーツ局長はサンパウロ州で模範競技を見せるよう、世界最速だった「トビウオ」を招へいした。彼らは日本のチームであり、大戦の結果を受け、世界と外交関係がなく、一般的には招へい禁止と思われていた。ヴァルガスはそのアイデアを辞めさせたかった。でもパジーリャは「これは州の問題であって、連邦とは関係がない。彼らは政治的な使節団ではなく、競技者たちだ」と蹴った。一行が到着した後も、大統領は日章旗と国歌斉唱を禁じるように要請したが、ジルビオは日本人たちへの顕彰としてのイベントであるから当然だと、さらに一蹴した。彼らの訪問先の一つマリリアで、岡本哲夫が彼らのやり方を学び、この競技のブラジル五輪界の最初のメダリストになった》と書かれている。
つまり、反ヴァルガス主義的なスポーツ振興策として、日本水泳選手団はサンパウロ州政府のお金で招へいされ、敢えて日本移民がたくさん集まる目の前で日章旗を掲げ、君が代を歌わせた。
戦前戦中にヴァルガス独裁政権に敵性国民として迫害された日本移民にとって、夢の様な光景だった。そこには、こんな政治的背景があった。
パジーリャは1947年からブラジル五輪委員会のメンバーとなり、奇しくも1964年東京五輪の時からブラジル五輪委員会の委員長になり、以来、88年ソウル五輪まで7大会のブラジル代表団を率いた超大物になった。
ヴァルガスの影響の強い政権下、そんな反骨精神のある人物でなければ、資金を負担して日本の水泳団を招へいするなど、ありえないことだった。
でもその想いが通じて、52年ヘルシンキでは岡本がついに表彰台に上がった。これは護憲革命で連邦政府軍に踏みにじられたサンパウロ州民の復讐でもあったのかもしれない。岡本の快挙を一番喜んだのは、きっとパジーリャだろう。(つづく、深沢正雪記者)