岡本の業績と人柄をまとめたドキュメンタリー映画『O nadador – A história de Tetsuo Okamoto』(以下『競泳選手』と略、2014年、26分、ポ語、ロドリゴ・グロッタ監督)で、姉の鈴枝さんは弟の性格を《とにかく控えめで、あまり社交的ではなかった。勉強よりも、ひたすらスポーツに打ち込んでいた》という。コロニアであまり知られていなかったのは、そんな性格も影響したのかも。
マリリアでの幼友達トニーニョ・ネットさんも《哲夫は頭がデカくて、身体が細かったから、タッシーニャ(小さなトロフィー(優勝杯)と綽名されていた》(同映画)という。
1950年当時、コロニアでは注目されなかった岡本。その時、日本の水泳使節団一行から、「いい成績を出したかったら、もっと練習量を増やさないとダメだ」とのアドバイスを受けた。それまでは1日に1千メートルしか練習していなかったが、毎日1万泳ぐようアドバイスされ、その言葉を忠実に守った(前出のニッケイ新聞)。
フォーリャ・デ・サンパウロ紙07年10月3日付の岡本の訃報記事には「当時は温水プールがないので寒さと闘い、塩素で目を真っ赤にしながら、毎日1万メートルのノルマをこなした。狂信的といえるほどだった」と書かれている。でもそれが彼の人生を変えた。
日本オリンピック委員会サイトにある「Japanese Oliympian Spirits」連載の古橋編を見ると、現役時代には「練習量も1日2万メートルは珍しくありませんでした」とあるので、岡本の2倍は泳いでいた。凄まじい特訓の成果が、世界新記録を生んでいた訳だ。
岡本の特訓の成果はすぐに表れ、翌年からぐんぐんと頭角を現していった。51年2月末から3月初旬にアルゼンチンのブエノスアイレスで開かれた汎アメリカン大会(Jogos Pan-Americanos)の400メートルと1500メートル自由形で優勝したのだ。
岡本は汎アメリカン大会で初めて優勝したブラジル人となった。おりしもブラジルは初の自国開催サッカーW杯(1950年6~7月)の決勝戦でウルグアイに惜敗した。そのショックから半年、まだ立ち直っていなかった。そんな時、南北アメリカ大陸で1位となった岡本は、そのトラウマを癒す役割を担った。
マリリア市は祝日を宣言して、岡本をオープンカーに乗せて町を凱旋パレードさせると、市民は熱狂した。ところが、そのパレードの最中、岡本の自宅には泥棒が入り、金品を盗まれるという当地らしいオマケのエピソードまで。
喜んだマリリアの日系社会では、自動車を1台、岡本にお祝いで上げようとしたが、彼は断った。「五輪選手はアマチュアでなければならない。賞品と間違われる可能性のあるものを貰うと、アマチュアの資格を失う」と考えたからだ。
現在のようにプロ選手が参加する時代とは大きく違っていた。(つづく、深沢正雪記者)
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