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2004年8月14日付のニッケイ新聞
2004年8月14日付のニッケイ新聞

ブラジル水泳界の英雄 岡本哲夫=日伯交流から生まれた奇跡=(11)=移民の子が国家的な貢献

  岡本の快挙を祝って地元マリリアでは1952年9月28日に「河童祭り」と称する祝勝会が開かれ、牛3頭を焼いて1千人を招く盛大なシュラスコ会が開催された。それを報じたパウリスタ新聞52年10月2日付によれば、父専太郎が「泳ぎ始めはわしの観海流(日本古来の遠泳法の一つ)を仕込んだもので…」などと始終、上機嫌だったという。
 映画『競泳選手』には、1960年のローマ五輪の100メートル自由形で銅を取ったマヌエル・ドス・サントスの貴重な証言もある。
 《とにかく哲夫は我々のアイドルだった。彼の真似をすることこそ、僕らが必死にしたこと。日本人らしい勤勉さなど、彼は全てにおいて僕らの模範だった。普通のブラジル人選手の2倍以上泳いでいた。だから、僕は子供にも「テツオの様になれ!」と教え込んだ》と語っている。
 哲夫の真似をしたおかげで、ブラジル水泳界には二つ目のメダルがもたらされた訳だ。
 岡本はその後、米国テキサスA&M大学(Texas Agricultural Mechanical College)に留学して地質学を修めたが、競泳からは遠ざかって行った。帰伯後はサンパウロ市で就職し、「味の素や米国企業などの会社勤めなどもしたが、76年に同じくサンパウロ市で、地下水開発・ボーリング会社を設立し、今も大サンパウロ圏を中心に活動している」(同ニッケイ新聞)とある。
 岡本は生涯独身を貫いた。「当時はメダルを獲得しても、コマーシャルに出ることもなく、今と違ってお金にならなかった。逆にスポーツマンは仕事もしないバガブンド(放蕩者)と思われていた。しかし水泳のおかげでいろいろな国にもいけたし、一時は英雄にもなったし、いい夢を見させてもらいました。今でも水に関連した仕事をしており、まあ結婚しなかった私には、水が女房みたいなものですね」(同ニッケイ新聞)と屈託なく笑った。
 「岡本以前」、五輪メダルはたった4つしかなかった。ブラジル五輪初参加の1920年アントワープ(ベルギー)でブラジルは金1、銀1、銅1の計三つが最初。24年パリはゼロ、32年ロスもゼロ、36年ベルリンもゼロ、戦後初の48年ロンドンでようやく銅1。その後がヘルシンキの金1、銅2だった。
 つまり岡本のは、ブラジルとしては通算五つ目といっていい貴重なメダルだ。しかも競泳で初、移民の子が達成した国家的な貢献だった。
 「岡本以後」を見てみても、彼の業績は突出している。水泳界で二つ目のメダルは1960年ローマのマヌエル・ドス・サントスの100メートル自由形の銅、三つ目は1980年モスクワでの銅だ。これ以降、90年代に4つ、2000年以降に5つという時代に入る。今回のリオ五輪では、やはり日系の沖本ポリアナが遠泳で銅をとったが、水泳関連ではそれだけ。岡本のメダルが、いかに時代に先駆けていたかが分かる。
 リオ五輪を含めて、ブラジルは五輪競泳で14のメダル(金1、銀4、銅9)を獲得したが、1500メートル自由形では岡本のみ。国内では柔道、ヨット、陸上に次ぐ4番目にメダルを獲得する種目に育っているが、その一番最初が岡本だった。
 だからこそ、2007年10月2日に亡くなった時、ブラジルの大手メディアはこぞって訃報を出し、競泳スポーツブラジル連合(CBDA)は死を惜しみ、「3日間の服喪」を宣言した。
 競うように追悼する様は、まるで《二百米決勝のゴール迫るときオカモトを呼ぶ声湧き高まれり》(武本由夫)の歌そのもの。人生のゴールにタッチした英雄に、ブラジル国民が歓声を送ったかのようだ。(終わり、深沢正雪記者)

 

「O nadador – A historia de Tetsuo Okamoto」(2014年、26分、ポ語、ロドリゴ・グロッタ監督)
http://tvbrasil.ebc.com.br/memoriadoesporteolimpicobrasileiro/episodio/o-nadador-a-historia-de-tetsuo-okamoto