ブラジル和歌山県人会(谷口ジョゼー会長)が今年、日本からブラジルに移住した県人の百周年を迎えたことから、18日午後にサンパウロ市内の県人会館で追悼法要を行なった。来年には知事らを招待した百周年記念式典を予定しており、同会初の記念誌編纂にも着手する。
三重県出身で、のちに和歌山県に転住した中井浅吉を家長とする一家が、和歌山県人のブラジル移住の先駆け。浅吉の次男・繁次郎以降の世代が和歌山で出生したので、繁次郎が県人移住第1号となった。
親族によれば1914年に浅吉がまず下見のため渡航しており、2年後の16年、家族を連れて本格移住した。ただし本紙調査では、同年には日本の移民船は到着しておらず、外国籍の客船で渡航した可能性がある。
県人会はこれまで記念誌を編纂しておらず、母県にある渡航資料は戦争で焼け、正確な記録が残っていない。ただし県連資料や会の定款には、1916年に初めて和歌山県人が移住したと記されている。役員らが今年それに気付き、記念事業の始動となった。
午後2時過ぎに始まった法要は、浄土宗日伯寺の稲場ペドロ師によって進行され、1600家族(推定6千人)の移住者のうちの先没者を弔った。法話では参列者約70人を前に「県人移住から百年経った今、改めて法要を行なうことは重要」と意義を説いた。
先駆者、中井家の親族7人も訪れた。日ポ語の教師で通訳を務める小夜子さん(68、和歌山県)=サントス在住=は、「中井家は初め、サンパウロ州奥地のコーヒー園に入植した。プレシデンテ・プルデンテあたりのはず。3、4年して例に漏れずおそらく夜逃げ。サントスに落ち着ついた」と明かす。
本州最南端の漁村・串本町潮岬に生まれた繁次郎は、猟師としてその地で財を築いた。1943年7月にサントス在住の日本移民やドイツ移民は強制立ち退きさせられたが、戦後すぐに戻り、サントス日本人会は活動を再開。
繁次郎は初代会長を務め、戦中に連邦政府に接収されたサントス日語学校の返還運動を始めた。孫の貞夫さん(55、三世)は市議となり、返還運動を現在も推し進めている。
サントスと姉妹提携先の長崎県から贈られた、路面電車と伝統芸能「龍踊り」の龍体に関しては実現の一翼を担った。
貞夫さんは祖父について「勉強熱心でインテリ。政治や経済、いろんなことを知っていた」と懐かしみ、中井家を始めとする開拓者への追悼に感謝を示した。
なお百周年事業としては来年、県知事らを招いての式典を予定。来月中旬に谷口会長が訪日し、県庁や各自治体を訪問する。寄稿をまとめた記念誌の編纂も予定する。県系人から移住生活におけるエピソードを集める。谷口会長は「記念誌は日ポ両語で読みやすい内容にしたい。予算など詳細はこれから。時間はかかるが協議を進めたい」と話している。