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ウリセスが生誕100周年=ブラジル民主主義の象徴的政治家

88年、新憲法制定当時のウリセス氏(Célio Azevedo)

88年、新憲法制定当時のウリセス氏(Célio Azevedo)

 ブラジル政治史に残る偉大な政治家にしばし数えられるウリセス・ギマリャンエス氏(1992年没)が6日で生誕100周年を迎え、その存在がいま一度注目されている。
 「ウリセス先生」の名で親しまれたウリセス氏は、その生涯において大統領にまでたどりついたことはない。だが、ブラジルが軍事政権の時代に、野党勢力の中心的政治家として君臨し、軍事政権の明けたブラジルで、その後の国の道筋をつけたのは他ならぬウリセス氏であった。
 1916年にサンパウロ州で生まれたウリセス氏はジェツリオ・ヴァルガス大統領が設立した民主社会党(PSD)に1947年に入党し、51年から下院議員となった。56年から58年には下院議長。そして61年、ときのジョアン・グラール(ジャン後)大統領時代に産業開発相に就任し62年9月までつとめた。
 当初は「共産主義反対」の立場から、64年3月に起こった軍事クーデターの際には、軍の主張に同調したが、すぐに軍事政権の方針に反対。65年に軍が一党だけの野党を設立するのを認めた際、ウリセス氏はその野党、民主運動(MDB)に入党。その党が現在、ミシェル・テメル大統領の所属する民主運動党(PMDB、80年に現政党名に)に後に発展した。
 ウリセス氏は1971年にMDBの党首に就任すると、そこから野党側のリーダーとして長く君臨した。74年の議会内での大統領選挙には雇う代表で出馬し、エルネスト・ガイゼル氏に敗れている。
 時代の機運が変わったのはその10年後だ。この頃に軍事政権が弱体化し、国民が国民たちの投票による大統領選挙を求める運動「ジレッタス・ジャー」を起こした。結局、議会投票で否決されたため、次の85年1月の大統領選は議会での選挙と決まった。
 この際、PMDB党首だったウリセス氏は野党側の有力候補だったが、ジャンゴ大統領時代に首相職にあったタンクレード・ネーヴェス氏がジレッタス・ジャーの際に人気が高く、加えて、軍政政党での候補者指名に不満を感じ離脱しPMDBに合流した一派がタンクレード氏に接近し、軍政政党の前党首だったジョゼ・サルネイ氏を副候補に据えての選挙を申し出た。この際、ウリセス氏は、これを裏から支える方に回った。
 結果、85年1月の選挙はタンクレード氏の勝利で軍政は終焉したが、4月の就任式の直前にタンクレード氏が病魔に襲われ就任できなくなり(その後死亡)、サルネイ氏が大統領に昇格。同氏のもとでブラジルは未曾有のハイパー・インフレに襲われ、軍事政権直後で明るくなるはずの世はなおも動乱した。
 この当時、ウリセス氏は2度目の下院議長をつとめ、軍政終焉後のブラジルの道筋をつけるべく、新たな憲法の作成に着手した。その結果、1988年、現在にまでつながるブラジル国憲法の制定を実現させた。
 翌89年、ウリセス氏は逃し続けていた大統領の座をかけ初の国民投票となった大統領選に出馬したが、当時73歳という高齢を敬遠されたのと、サルネイ氏の失政のイメージも重なり7位と惨敗。当時40代と若かったフェルナンド・コーロル氏とルーラ氏が決選投票に進んだ。
 92年10月、ウリセス氏はリオでのヘリコプター墜落事故でその生涯を閉じることとなった。当時ウリセス氏は76歳ではありつつもまだ現役の下院議員。その直前には、下院で、コーロル大統領の罷免案が通過するのを見届けたばかりだった。
 ウリセス氏は大統領にこそならなかったが、激動のブラジル政治史に生命を捧げたことが評価され、ヴァルガス大統領やジュセリノ・クビチェック大統領などと共に「尊敬する政治家」によく名前が挙がる存在となっている。リオには「ウリセス・ギマリャンエス記念館」が建てられ、PMDBのひとつの拠点となっている。PMDBは現在、多くの党員がラヴァ・ジャット作戦での汚職で揺れてはいるが、議員や市長の数では現在も首位の政党で、議会での議長職も歴代つとめてもいる。
 6日の下院では、ウリセス氏の生誕100周年を記念し、オメナージェン(トリビュート)される時間も設けられた。