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道のない道=村上尚子=(15)

「お父さんは、あの恩給で自分自身をダメにしてしもうた……」
 この知らせを境に、父はいよいよワンマンになり、皆を頭から押さえ付けた。何より茂夫に対する苛めが、度を越してきた。ついにこの孤独な彼を見かねた私は、別居を申し出た。というより喧嘩別れである。

 別居と云っても、仕事場も何も変わらない。住む家だけの話。私と茂夫、赤ん坊の三人が入れる小屋を見つけたのだ。同じコーヒー園内である。
 原始林のすぐ側で、周囲は草で遠くは見えない。草は背丈以上あり、枯れススキのように枯れて、何の風情もなく風に揺れている。こんな小屋があるとは知らなかったし、こんな荒れ野原があるとも知らなかった。とにかく、ここへ入ることにした。五十メートルくらい側まで近づかないと、人はおろか小屋も見つけられない。道までは、五百メートルはある。そこまで草ぼうぼうなのだ。
 私は臆病ではないが、さすがこれではパラグアイ人に襲われたら、ひとたまりもないだろうと感じた。
 ほんの僅かな所帯道具を持ってやってくると、この小屋の中に誰かいる。そっと覗いてみると、いつの間にかハンモックを吊って、一人の男が寝ている。茂夫は彼に、そっと声をかけてみた。すると男は、「今、自分は病気です。動くことが出来ません」と言う。
 ハンモックの陰で、苦しさに耐えている顔があった。ひたいに手を当ててみると、すごい熱である。痩せて背の高そうな男で、白いシャツもうす汚れている。身の回りには何ひとつ彼の持ち物はない。
「きっと、何か悪いことをして逃げ込んだとよ」と、茂夫は呟いた。
 看護婦だった母に相談したところ、彼女はアスピリンをくれた。
「薬のひとつも飲みなれていない人間だから、これで十分利くばい」
 と言った。それに気の利いた薬など、持ち合わせてもいなかった。なるほど飲ませてみると、たちまち熱は引いた。まだ弱々しいが、男は心から感謝して出て行った(これからどうして食べて行くのだろうか?)。私は彼の後ろ姿をじっと見送った……。
「こういう流れ者が時々いるな」
 ずっと前にも、こんな者たちがいることを聞いた。
 次の日から赤ん坊は家に寝かせて、他の者たちとは別行動で、草取りを始めた。その辺りのコーヒーの木は、土地が荒れている。そのため、コーヒーの木は貧相である。ぼろぼろした土へ、エンシャーダを打ち込むと硬い。あの肥沃な土の上に立っているのと、このようなガラガラの土の上とでは、体に伝わってくるエネルギーのようなものが、全然違って感じる。

 食事は前よりもっと酷くなった。
 その僅かな食料を、内緒で母に分けてもらった。風呂も水が無いのでみなが寝しずまった頃、こっそり入りに行った。
 母は、風呂のある、うす暗い所に、たった一人いて、火の番をしてくれていた。
「もう、お父さん寝たき、だいじょうぶ……」と声を殺してささやいた。裸になると、父が飛び出して来ないか、よけい不安は募る。しかしドラム缶の湯に、首まで浸かり、満天の空を見上げると、この不安がスーッと引いた。