アルゼンチン軍事独裁政権時代(1976~82年)に政治活動をしていた日系人数十人が「失踪」したまま。そのうちの16人について描いたドキュメンタリー映画『Silencio roto. 16 Nikkeis(破られた沈黙 16人の日系人)』(パブロ・モヤマ監督、スペイン語、2015年)が14、15両日、サンパウロ市で特別に上映される。失踪した弟の捜索を続ける「日系亜人失踪者家族会」の大城エウザさん(二世、62)に話を聞いた。
「1976年11月10日午前3時ごろ、突然、玄関の呼び鈴が鳴らされ、『ケガ人がいるので開けて』というので、母が解錠すると、機関銃などで武装した軍隊が一気になだれ込んで来た。一目散に弟の部屋に向かい、銃を向け、有無を言わさず連行した」。大城さんは、まるで昨日のことのように覚えている。
弟ジョルジさんは、当時まだ18歳の高校生だった。でも、政府批判をする「社会主義労働者党」の青年部で、機関紙発行などに携わっていたという。
「党からは『危ないから党員は地下にもぐって、行方を眩ませ』との指示が出ていたが、弟は『ここで逃げたら一生逃げ続けることになる。自分は何もしていないから説明すれば分かる』と家に居続けた。その結果、ゲリラ予防、見せしめとして標的にされたようだ。まさか、そのまま行方不明になるとは・・・」と目に涙を浮かべる。数え切れないぐらいに軍や警察に問い合わせたが「いまだに遺体の行方も分からない」。
当時の軍政は非合法な殺し屋集団を親衛隊のように使って対ゲリラ戦略を展開し、反体制派を徹底的に弾圧した。失踪者はおよそ3万人といわれ、首都ブエノスアイレスだけ、少なくとも16人の日系人が犠牲となった。そのほとんどが沖縄県系人だった。
エルサさんは行方不明者家族とあちこちで出会う中、同家族会の活動が始まった。78年には在亜日本国大使館にも嘆願書を送り、亜国政府への情報請求に協力を求めたが、無視され続けた。
民政移管した83年、司法には9千件以上の告発が寄せられた。しかし公判は開かれても刑罰を下す判決は皆無の状況が続いた。クリスチーナ大統領が就任した04年以降、ようやく有罪判決が下されるように。日本政府も99年から話を聞くようになり、同会は11年に大使館で写真展を開催した。
大城さんは「拷問を受けた生存者は多くを語りたがらない。家族も避ける。特に日系人は沈黙を守っている。もっと事実を広く知らせ、皆が言える空気を作りたい」と今回の上演と座談会に込めた期待をのべた。
▼14日午後4時=サンパウロ大学内映画館(Rua do Anfiteatro, 181. Colmeia – Favo 04 – Cidade Universitária)ポ語字幕版上映▼午後7時半=沖縄県人会(Rua Tomás de Lima, 72)でポ語字幕版の上演と大城さんとの討論会▼15日午前11時=フレイカネカショッピング・センター内映画館(- Rua Frei Caneca, 569, 3º andar – Consolação)。大城さん、アレサンドロ・アシウト氏(社会学者)、アドリアノ・ジオゴ氏(サンパウロ州真実究明委員会委員長)、マウリシオ・ポリチ氏(レジスタンス記念館)を招いた討論会が行われる。