JICA日系社会ボランティアが今年、30周年を迎えたのを記念して、現役と経験者による20人ほどのリレーエッセイを、毎週1回をめどに掲載することになった。青年とシニアそれぞれから、ボランティア時に最も印象深かった体験談や、その後に役に立った経験を中心に、派遣された団体の紹介を、エッセイ風に書いてもらった。30年は長い。いろいろな人材がこの制度から生まれ、そして今育っていることが実感される連載になりそうだ。(編集部)
やってきました、アニマルランド――ブラジルから日本の友人たちに宛てた便りの出だしだ。1988年2月、私は海外開発青年第3回生、日本語教師としてバイア州に着任した。
当時の任期は3年、1年目にポストダマッタ日本語学校、2年目にテイシェイラ・デ・フレイタス日本語学校、3年目にサルバドール日本語学校と州内3校で活動した。
折しも日本はバブルの真っただ中、東京都心の一人暮らしから一転、バイアでの「アニマルランド」生活が始まった。
敷地内に新築された宿舎には初日から豚の親子が闖入、鶏や牛、馬が侵入するのも日常茶飯事だった。そして入って来るのは動物だけではない。怖かったのは、敷地前所有者の妻である。その人は精神を病んでおり、時々「ほうき」を持って入ってくると聞いていた。
しかしその日、彼女が手にしていたのは「ほうき」ではなく「包丁」であった。生徒たちを背に彼女と対峙、助けを求めに行くよう生徒の一人に日本語でこっそり指示し事なきを得た。
当時、日本語学校の授業は月曜から土曜まで毎日、生徒たちは早くからやって来て授業が終わってもなかなか帰ろうとしなかった。私の宿舎にもお構いなく入って来ては、「これ日本の?」と言いながら私の服や靴を試していた。
ある日、「これ日本のシャンプー?」と浴室から声がするので慌てて行ってみると、既にその子の頭から泡が出ていた。そのうち土曜日の夜も生徒たちが泊りがけで来るようになり、子供たちに囲まれる日々を送った。
帰国後、コールセンターの多言語チームを統括する職に就いたが、多国籍社員とのコミュニケーション、危機管理等にバイアでの経験が役立ったのは言うまでもない。
そして2014年7月、日系社会シニアボランティアとして家族連れでバイアに着任、文協および教師の方々、教え子たちとの再会を果たした。教え子たちはみな立派に成長し、家族を含めて今度は私の方が教え子たちにお世話になった。
2年間、東北伯の各日本語学校を巡回したが、都会校では生徒数が増加、非日系成人の割合が高くなっている。その一方、地方校では生徒減少、または教師不足から閉校や休校に追い込まれている所も少なくない。
その中で、休校中だったテイシェイラ・デ・フレイタス日本語学校が再開するという嬉しいこともあった。
今年7月帰国、次の活動に向け、目下、準備中である。渡伯前あれほど嫌がっていた二人の子供たちは今や、私よりもポルトガル語が上達、「ブラジル好き」になってくれた。お世話になった全ての方々に感謝を申し上げたい。
宝田 克子(かつこ)さん
【略歴】山口県出身。61歳。1988年から3年間を開発青年(第3回)として南バイア文化体育農事協会(テイシェイラ・デ・フレイタス)及びサルバドール日伯文化協会(サルバドール)で日本語教師、その後は2014年から2年間、シニアとしてバイア日伯文化協会連合会に今年7月まで日系日本語学校教師(第29回)として派遣された。