被害者の直話
アントニーナと同時にパラナグアでもケブラケブラが起きたが、筆者はその被害者の一人から、直接、話を聞くことができた。2014年のことである。
クリチーバ市内に、東野一子という老婦人が住んでおり、少女時代、難に遭ったという。(東野
ヒガシノ、一子=カズコ)
筆者は──この南パラナの取材に協力してくれた──クリチーバの住人山下亮さんの案内で、別用(後述)で東野家を訪問した時、偶々その話を聞いた。
一子さんは、歳は83ということであった。事件の折は11歳だった。
遠い昔のことである上、体調もよくなく、記憶は薄れていたが、懸命に思い出しつつ話してくれた。
「町の近くに住んで居りました。パラナグアには、日本人は14、5家族居て、農業や商売をしていました。(暴徒が)家の中に侵入、物を奪い、外から石を投げ込み‥‥。私たち家族は、昼間は山の中のイタリア人の牛小屋に隠れ、1週間ほどして、カミニョンでクリチーバへ逃げました。マヌエル・リーバスの農場に保護され‥‥州の農事試験場であったかもしれません。戦後も、戻りませんでした。パラナグアは、パラナ州の上陸地点で、町は未だ小さく古い建物が多くあったことを覚えています」
パラナグアの邦人も、アントニーナと同じ経緯で、皆、クリチーバへ退避した。
もう一カ所、モレッテスの場合、10家族余の邦人が住んでいたが、町で聞いた処では「当時を知る人は、誰も居ない」という。
ここのケラケブラに関する記録は見つからないが、州政府の退避指示の対象地域になっていたから、やはり全員、退避した筈である。
右の「指示」は、ポ語では「オールデン」と言葉が使われており、命令という意味にもなる。
かくの如くで、パラナグア湾の南岸地域に居た日本人は、1942年9月、突如、皆、消えてしまったのである。
後日、クリチーバで聞いた処では、「退避者は、戦後も戻ることはなかった。現在(パラナグア湾の南岸地域に)居る日系人は、別の人たちで、戦後、仕事などの都合で移り住んだ人々」ということであった。
マヌエル・リーバス
被害者だけでなく、邦人の総てが消えたのは、前記の様に州政府の指示があったことによる。
ケブラケブラが起きた数日後、パラナ州政府は枢軸国系住民に、24時間以内の立退きを指示、サルボ・コンドゥット=旅行許可書=を発行した。(当時、枢軸国人の旅行は許可書が必要だった)指示が通達されたのが、9月25日であった。
「マノエル・リーバスが、そちらは警察力が弱いから、クリチーバに来い、というので、そうした」という当事者の談話も資料類に記されている。
最初、ケブラケブラが起きた時、クリチーバに逃げて来た避難民を見たマヌエル・リーバスが、残りの枢軸国人を、総て退避させたのである。
退避者は、一部は汽車を使った。陸軍のカミニョンで運ばれた者も居た。
東野一子さんの話の中に出てきたカミニョンは、多分、これであろう。
クリチーバでは、マノエル・リーバスが、随分、親切にしてくれたという。
「避難民を見舞って、慰めの言葉をかけ、泣く子を抱き上げ、あやし、病人はサンタ・カーザへ送り、院長に手当てを指示した。仕事の無い者は州の農事試験場へ送り、働かせた」
「日本人の子供は皆教育してやる、とカストロの学校にいれた」
「アントニーナの佐々木さんの娘の目を、治療費を出して治してやり、着物まで買ってやった」
‥‥といった話が、やはり資料類に、記されている。
ただ、前出のパラナグアの漁業組合は、この執政官によって不幸な最期を迎えた。
同組合はその後クリチーバに移転、会社組織に改め、清水安次郎が経営していた。が、戦時中、接収されてしまったのである。
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