日本にいる知人が、うつ病で闘病中のご主人の事をフェイスブックに書いてくる。本人もうつ病で苦しんだだけに、ご主人に何が起きているかが人並み以上によくわかるのだ。そんな彼女がシェアした文章に、杖に頼って歩いていたが三輪歩行器を使うようになり、ハイキングや釣りなどの趣味を楽しめなくなった方の話があった▼文句を言い、現実逃避をしたり、自己憐憫に陥ったりするのが当然の状況だが、その方は「体の制約は神が与えたもので、あるがままを受け入れ、足るを知る事で日々の営みに自信や勇気が与えられる」と書いておられた。これを読んで、かつて手伝った高齢者向けのデイサービスで、高齢者が肉体の衰えなどの現実を受け止める事の大切さについて聞いた事も思い出した▼人が一生の間に経験する喜びや悲しみは様々だ。家族や友人との別離、財産喪失、病気など、数え上げればきりがないし、事業に成功したせいで人に妬まれ、強盗などに襲われた例もある。これらの出来事でストレス指数が上がれば、持病悪化や22日に地下鉄で起きたような自殺行為なども招きかねない▼しかし、「苦しみ」=「不幸」ではなく、痛みや苦難は人として成長するために「与えられたもの」と考え、今を大切に生きるようになれば、日々の営みが持つ意味も変わってくる。悲しみや苦しみを経験した人ならばこその視点で回りの人や状況を見られるようになるからだ。一人の人が経験できる事は本当に僅かだが、満足する事を知り、生かしていて下さる方の事を知る時、「今日も生かされた」との喜びで一日を閉じられるだろう。ナタール(クリスマス)も近い。視点や発想の転換を。(み)