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第46回県連故郷巡り=悠久と躍動の北西パラナ=(2)=産業開発青年隊のふるさと

記念碑で記念撮影。左から馬場さんと奥さん、渡辺尊人さん、藤岡さん、小山さん、曽我さん

記念碑で記念撮影。左から馬場さんと奥さん、渡辺尊人さん、藤岡さん、小山さん、曽我さん

 ウマラマ市から70キロほどのセーラ・ドス・ドウラードスには、今年60周年を祝う「南米産業開発青年隊」の訓練所があった。彼らにとってはまさに「ふるさと」と言えるゆかりの地だ。これは、農家の次男、三男問題を解決するために建設省が作った制度で、当時の事務官だった長沢亮太氏が中心となり、南米に326人を送り込んだ。今年60周年を迎え、アヴァレーで式典をする。
 青年隊4期で1959年に到着した曽我義成さん(79、岐阜県、4期)は「あの頃、ウマラマにアスファルトの道はなく、小さな町だった。訓練所からよくここまでトラクターで買い出しにきた。一日仕事だったな」と遠くを見るようなしぐさで懐かしんだ。
 35周年式典をウマラマ日伯文化体育協会の会館で挙行した関係から、同地に残った青年隊員4人は会員となり、現在まで会を支える重要メンバーになっている。
 ただし、1期の本間健さん(享年82)は今年7月20日にガンで急逝し、現在の現地在住は3人。

渡辺益男さん

渡辺益男さん

 9月30日午後、現地の藤岡忠三さん(74、島根県、7期)と渡辺益男さん(73、千葉県、9期)、渡辺尊人さん(76、長野県、6期)ら3人は、一行の隊員の小山徳さん(77、長野県、8期)と馬場和義さん(77、佐賀県、5期)と共に墓参りし、線香をあげた。
 同訓練所は、隊員が現地に適応するまでの1年間を研修させる場として、隊員自らによって1956年に建設が開始された。ブルドーザーなどの重機もあり、宿舎、飛行場、貯水ダムなどまで作られた。
 セーラ・ドス・ドウラードスに大農場を経営していた実業家・和田周一郎さんが、趣旨に賛同して土地の一部を寄付した。しかし、青年隊の強力な後ろ盾だった下元健吉(コチア産組創立者)が1957年に急死して以来、支援が減り、64年には閉鎖された。
 渡辺尊人さんは「ウマラマの町に電気が来たのは1969年頃。それまではどこの家でも自家発電だった」と説明する。現在ではマンジョッカやサトウキビ生産、牧畜などで成長し、11万人都市に育った黎明期から寄り添ってきた。
 「訓練所には1年3カ月いたけど、食い盛りの青年が何十人もいたから食べ物が足りなくて困っていた。最初の半年、食べ物はマンジョッカばかり。豚のエサを俺らが全部食っちゃったんだ」と笑う。本間さんらを中心に、青年隊員は水田米にこだわって生産してきたが、採算が難しくなり最近辞めた。
 渡辺益男さんは「僕が20歳で青年隊で渡伯して、訓練所にいたのは1963年。それからここで、ずっと米をやってきて、今は牧場経営」と自己紹介した。
 市営墓地で墓参りした後、みなで60キロ離れたドラジーナ市に向かった。ブラジル人に売却された訓練所の敷地入口には、青年隊の生みの親「長沢亮太」揮毫による文字がイッペーの材木に彫り込まれた記念柱が、35周年を記念して建てられていた。
 しかし、その根元が腐ってきたので、藤岡さんがその文字を、河原から拾ってきた石に掘り直し、ドラジーナ市長に直談判して「日本広場」を造り、2012年4月12日にそれを安置した。奥の壁には笠戸丸や富士山の絵がペンキで描かれている。これは確かに青年隊の「ふるさと」を証明する記念碑だ。(つづく、深沢正雪記者)